氷河が真の恐怖に襲われたのは、そして、瞬の許に帰るという希望を諦めることになったのは、彼が その砂だらけの丘で、実に珍妙な生き物に出会ってしまったからだった。 それを、氷河は最初はただの紙くずだと思った。 だが、紙クズが風になぶられているにしては、それは実に不自然な動きを見せていた。 つまり、その紙クズは直立して砂の上を移動していたのである。 ではそれは紙くずではなく動物なのかと氷河は考えたのだが、それも怪しい。 海底でゆらめく昆布を動物と言っていいのなら、確かにそういう動物も地球上には存在するのかもしれなかったが、瞬に付き合って毎週 某国営放送の動物ドキュメンタリー番組を視聴している氷河も、それは初めて見る生き物だった。 体長は10センチほど。 形状は間延びした長六角形。 動きはさほど速くはない。 というよりむしろ、どこか覚束ない足取りである(氷河には、そのモノの足がどこにあるのかを確認することはできなかったが)。 どこかで見たような形だと思いながら、氷河はそれを掴まえるべく、音を立てずに近寄って、その異様な物体をつまみあげようとした。 その途端。 「何をするっ! 無礼者っ!」 「なにっ !? 」 その紙くずは、確かに氷河にも理解できる言葉を発し、その体長から考えると驚異的な跳躍力を見せて氷河の手から逃れてみせたのである。 氷河が指でつまもうとした際に千切れた、その物体の切れ端だけが、氷河の手に残された。 1メートルほどの距離を置いて、得体の知れない物体が氷河の方に向き直る。 どうやら氷河が見ていたのは、その物体の後ろ姿だったらしい。 正面からその物体の顔(?)を見て、氷河は驚きのあまり声を失ってしまったのだった。 氷河の驚愕も当然のこと。 氷河の手を逃れ、人間の言葉を発した その物体の正体はなんと! ノシである。 中元や歳暮等の贈答品の表に、水引とコンボで貼りつけられる、あの紙である。 それが、砂の上をぴょんぴょんと飛び跳ねながら、 「無礼者! 無礼者! これだから人間というやつは!」 と、どこにあるのかわからない口から、広い砂漠に 氷河が自分の正気を疑ったのは、言うまでもない。 冗談でも誇張でもなく、彼は全身から血の気が引き、気が遠くなりかけた。 (こ……こういう馬鹿馬鹿しい話をどこかで聞いたことが――いや、読んだことがあるぞ。あれは確か、どこぞの飛行機乗りがサハラ砂漠に不時着して、出来の悪い人形のような奇妙なモノに出会って……) 氷河が思い浮かべたのはもちろん、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著『星の王子さま』の物語だった。 全世界で5000万部を売った、児童文学の大傑作である。 砂漠で遭難した飛行機のパイロットが、ある小惑星からやってきた王子と出会い、その出会いによって愛情のなんたるかを知り、そして別れていく物語。 社会風刺と取れる描写部分を多く取り込みすぎたため テーマが分散気味で、氷河にはさほど優れた作品とは思えなかったし、奥行きを感じられない素朴に過ぎる挿絵も彼の好みではなかったのだが、メインテーマである愛情への考察は珠玉であり、何より瞬がその物語を非常に好んでいたので、氷河もそれを傑作と認めていた。 あの物語の主人公であるパイロットが不時着した砂漠で会ったのは、他の星から地球にやってきた小さな男の子だった。 小さな男の子――『星の王子様』なら、まだいい。 素朴に過ぎる挿絵でしか そのイメージを視覚的に捉えることはできなかったが、『星の王子様』は異星人とはいえ人間の姿をしていた。 しかし、あの物語の主人公と同じように砂漠で遭難した氷河の目の前に 今あるものは、ただの紙切れなのだ。 『星の王子様』ならぬ『ノシの王子様』なのである。 駄洒落にしても出来の悪すぎる冗談ではないか。 『ノシの王子様』の姿は滑稽を極め、辺りは明るい陽光で満ちているというのに、氷河が今 存在している世界は、底知れぬ深さを持つ闇の恐怖でできた悪夢の世界だった。 (俺は気が狂ってしまったんだ……) 氷河は、そう思わないわけにはいかなかったのである。 |