英国モラルの権化、ヴィクトリア女王。 夫アルバート公を亡くしてから黒衣しか身に着けようとしなかった貞女の鑑が、王家狩猟林番人ジョン・ブラウン某と秘密結婚をし、女王は既に彼の子供を妊娠しているというスキャンダルがローザンヌ・デイリー紙にスッパ抜かれたのは、1866年9月のことだった。 『道徳と秩序を守ることしか頭にない、あの女王がまさか』と疑う者、『あの頑固な堅物女王も、一応 女だったのだ』と嘲笑混じりに語る者、その反応は様々だった。 アルバート公が亡くなって5年、女王は47歳。 テーブルの脚が淫らだというので、英国中のテーブルに丈の長いテーブルクロスが掛けられた19世紀後半。 海を隔てたフランスでは、革命、共和制、帝政、王制と、目まぐるしく政体を変え、王室・王権はもはや絶対的なものではなくなっていた。 そのフランスと僅か34キロの海峡を挟んで存在する“グレートブリテン及びアイルランド連合王国”の王室は、しかし、現在も揺るぎない権力と権威を保っている。 『義務』『勤勉』『道徳』『家族中心主義』を重んじる女王の意図を汲んだ英国は、国全体が形骸的なモラルのテーブルクロスに覆われ、そのテーブルクロスの外に出ようとする者は、英国のモラルに罰せられる。 モラル――すなわち社会を維持するための規律――がすべてに優先する国では、有産階級である貴族と労働者階級の身分の別が“美しく”維持され、労働者階級に生まれた者は決して支配階級に受け入れられることはない。 にも関わらず――だからこそ? ――、英国は未曾有の繁栄を誇っていた。 「人間の本性を否定し続けてきた我等が女王陛下が今、人間性に復讐されているんだ。彼女は彼女の2番目の夫を決して公にできない」 午前の授業を終え、ランチをとるために戻った学寮の談話室で、ヒョウガは吐き出すように そう言った。 昼食後の話題が、中年の域にあるとはいえ女性のことになるのは珍しい。 自分が道徳的であることに酔っているような堅物の女王が、本当に二夫にまみえたのか――そのスキャンダルを完全に信じているわけではなさそうだったが、ヒョウガがそのスキャンダルを興味深く感じているのは事実のようだった。 夫を愛し、彼との間に9人もの子を儲け、理想的な家庭を築いていた女王。 夫亡きあとも夫ひとりに愛を捧げ続けて喪服を脱がず、これみよがしに貞節の美徳を国民に示し、また同じ美徳を国民にも求めてきた女王が、今更『夫以外の男性を愛するようになりました』と公言できるわけがない。 女王は彼女の形骸的モラルを守るために、愛する男との恋も結婚も彼との間に生まれた子供の存在すらも秘密にしておかなければならない。 人に知られさえしなければ、女王は貞節であり続けるのだ。 それが、英国の道徳だった。 ヒョウガが在籍するのは、そんな国の未来の支配層を養成するための学府だった。 ロンドン西郊にあるイートン校は、良家の子弟が13歳から18歳までの5年間を過ごす全寮制私立学校。 1440年、ヘンリー6世により創立された英国一の名門校である。 広大な敷地、石造りの荘厳な校舎、ゴシック様式の礼拝堂、図書館、博物館、幾棟もの学寮と広い運動場。 未来の英国の支配者たちは、ここで学問を修め、肉体を鍛錬し、規律を学ぶ。 修学の場としては これ以上ないほど恵まれた環境であるというのに、そして、彼自身がその恩恵に浴しているというのに、ヒョウガには、学内にある広い運動場でさえ“忌々しいもの”だった。 「教師たちはスポーツで生徒たちの欲望を発散させ、淫らな行為に及ばないよう苦心惨憺しているようだが、それは無駄な企みというものだ。女王陛下でさえ抗し難かった欲望に、我等凡百の者共が抵抗しきれるはずがない」 辛辣な体制批判を口にしているにも関わらず、彼に怒りの表情がないのは、『紳士たる者は感情を表に出すべきではない』という尊い教えを守っているからではない。 そんなことは熱く語るに値しない話題だと思っているから。同時に、意味のない規律道徳を国民に強いる英国という国のありさまに呆れているからだった。 「理由はどうあれ、俺、身体を動かすのは好きだなー。机に貼りついてラテン語訳なんかやらされてるよりはずっといいや。ああいうのって何の役に立つのかな。俺、そこんところが どーしてもわかんねーんだよ」 クリケットやラグビー等の学校対校試合で母校に幾度も勝利の栄誉をもたらし、その功績によって もちろん、どれほどラテン語の成績が悪くても、彼は母校に名誉をもたらす英雄であり、成績不振を理由に放校処分を受けるようなことには決してならないのだが。 「いい家に生まれてよかったな、セイヤ」 そんなセイヤをからかうように、シリュウが横から口を挟んでくる。 イートン校は、成績が優秀なだけでは入学できない学校である。 イートン校の生徒になるためには、家柄と財産が必要なのだ。 逆に言うなら、家柄が良く、高額な授業料を負担できるだけの財力があれば、学業の方はいささかお粗末でも、入学できる学校だった。 |