笑えない冗談を笑うことはできない。
氷河は、沙織のジョークを無視して口許を引きつらせ、彼女に自分の要求を突きつけた。
「沙織さん、瞬を元に戻してください」
「あら、あなたは色っぽい瞬がお好みだったんじゃなくて?」
「俺はそんなことは一言も言っていない。瞬が勝手に誤解して――」
「そう、瞬が勝手に不安になった。でも、それはあなたのせいでしょ」
「それはどういう意味です」

思いがけない反駁を受けて、氷河が僅かにたじろぐ。
幼い瞬に色気を感じて取り乱すのは、そんなものに惑わされる男に責のあることかもしれないが、瞬が幼くなったこと自体への責までを自分が負わされることになるなどとは、氷河は考えてもいなかった。
それは瞬の誤解とアテナの悪乗りのために生じた事態――と、氷河は認識していたのである。
しかし、沙織はそう思ってはいないらしい。

「色気というのは、つまり、甘えなのよ。甘えが形になったものなの。自分の弱さや非力を自覚している人間が、誰かに保護や物品や力を与えられたいと思った時、それを他人が与えやすい状況を作るために、かもしだすものが“色気”。それは弱者が自分の弱さを攻撃の武器にしたものなのよ。意識して隙を見せれば、それは作った色気になって、そういうのは媚とも言われるわね。だから――それがいいことなのか悪いことなのかの判断はさておいて、瞬が自然にあなたに甘えられるような状態になれば、瞬でも自然に色っぽくなるのよ」

「いや、だから俺は――」
氷河は、瞬に色気など望んだことはないのだ。
そんなものがなくても氷河は瞬が好きだったし、だいいち、沙織の見解が正しいとするならば、“氷河”という男が瞬に色気を感じる時、“氷河”は瞬を自分より弱い人間だとみなしている――ということになるではないか。
そんなことは瞬への侮辱だと、氷河は思った。
が、沙織は実際にそうなることを意図して、瞬を子供の姿に変えたものらしかった。

「今は氷河はそれほど瞬の上位者じゃないでしょう。だから私は、瞬を子供にすることで、瞬があなたに甘えられる状況を作ってみたの。で、色っぽい瞬の一丁上がり」
「……」
『それがいいことなのか悪いことなのかの判断はさておいて』と、沙織は言った。
それは悪いことに決まっているではないかと、氷河は、声には出さずにアテナに反駁したのである。

「瞬は、人に甘えず、一人で立っていようとする人間よ。子供だった頃に一輝に頼ってばかりで兄の負担になっていたという意識があるからなおさら、あなたには必要以上に頼ったりせず、あなたの前に対等な人間として存在したいと気を張って、瞬はいつも緊張していたの。そんな状態で瞬に甘えや色気なんて出てくるはずないでしょう」

子供は絶対的弱者であり、強者に守ってもらうべき存在である。
それゆえ、子供になった瞬の中には、『自分は氷河に甘えてもいいのだ』という意識が生まれた――その理屈はわからないでもない。
まして瞬が非力な子供になったのは、瞬自身がそういうものになりたいと望んだからではなく、(表向きは)アテナの悪ふざけによるもので、瞬自身に責任のあることではない。
当然 瞬は、自分が非力な子供になってしまったことに罪悪感を感じる必要もなく、心置きなく“強者”の氷河に甘えることができた――のだろう。
それはわかる。

だが、そんなことよりも何よりも、今の氷河にとって より大きな問題は、
「瞬が俺の前でいつも緊張していた……?」
――ということの方だった。
沙織が、浅く、一度だけ頷く。
「色気というものは、その緊張が解けた時に生まれるものなの。いくら瞬でも、あなたと一緒にいる時 常に緊張していたのでは身がもたないでしょうから――本当は16歳の瞬にも“色っぽい”時はあったんでしょう?」

アテナは本当にすべてを見通しているのかと、氷河は、彼女の洞察力に驚嘆した。
と同時に、氷河は沙織にそら恐ろしいものを感じてしまったのである。
彼女の言う通りだった。
「瞬はベッドでは凄まじいほど色っぽいんだ。俺は抑えがきかなくなってつい……朝には、昼まで瞬と寝ていたくなる――」
白鳥座の聖闘士は、もちろん低血圧などではなかった。
起床している時には決して誰にも見せようとしない隙のようなものを その身に備えた瞬を、少しでも長い間自分の腕の中に閉じ込めておきたいと願う、彼はただのド助平だったのだ。

「そんなこと、私の前で言うものじゃないわ」
形ばかり眉をひそめて氷河をたしなめてから、
「ベッドでは完全にあなたが主導権を握っているのでしょ。それが許される場所では、瞬もあなたに甘えることを自分に許しているのね、多分」
沙織はもっと大胆な言葉を、彼女自身の口から吐き出した。

「氷河がオトナになれば瞬も色っぽくなるって一輝が言ってたのは、そういうことかー。つまり包容力の問題……ってことだよな?」
得心したように呟く星矢に、紫龍が頷き返す。
が、彼の表情はあまり明朗なものではなかった。
「しかし、氷河が包容力のある大人になれば、その分瞬も大人になるだろう」
紫龍の意見は至極尤もなものだったろう。
瞬は、人に甘え、人に守られることを よしとする人間ではない。

「だから、ベッドの中だけでよかったんだ。その方が、ヘンタイ男共に瞬が目をつけられることもなくて、俺も安心していられる。いくら瞬が可愛くても、隙がなければ奴等は瞬に声をかけられない。おまえらが変なことを言うから、俺の瞬はあんな危険物になってしまったんだ……!」
今になって、氷河はやっとわかったのである。
自分が、瞬の何を好きだったのか、どんな瞬を好きだったのか――が。

「俺は――俺は多分、俺の前で懸命に気を張っている瞬が好きだったんだ。俺に甘えようとせず、強くあろうとして、ベッドでだけ、俺と二人きりでいる時にだけ、気を緩めてみせてくれる瞬が――」
“色っぽい”瞬を知っているのは自分だけ――それでよかったのだ。
その大いなる特権を人知れず保持していることは、瞬の恋人の自尊心を満たすことでもあった。
だというのに――だというのに、今のこの有り様は何なのだろう。
瞬の恋人には、不愉快極まりないこの現実!
「あんなふうに、四六時中色気を振り撒いている瞬なんて、俺の瞬じゃない! 俺は犯罪者になんかなりたくない!」

「おまえは、おまえの瞬じゃない瞬相手に犯罪者になるような行為をしたいのかよ!」
氷河の言葉の矛盾を突いて、星矢が鋭い突っ込みを入れてくる。
自分を聖人君子だなどと思ったことのない氷河に、しかし、その突っ込みは、毫ほどの打撃も与えることはできなかった。

「俺が俺の好きな瞬と寝るのは愛情から出たことで、犯罪じゃない。俺が今の瞬に何かしてしまったら、それは欲から出たことで、卑劣な犯罪だ。俺は俺の瞬が好きなんだ。気を張って、強がって、俺に甘えて楽なんかしようとしない俺の瞬が、だ。その瞬がふっと気弱になるあの瞬間を見るのが、その瞬間に立ち合うのが凄まじい快感だった。貴様等に、俺の瞬がどれだけ色っぽいかなんてわかってたまるか! いや、俺以外の誰も、そんなことは知らなくていい!」

星矢たちにがなりたてながら、その実、氷河が責めているのは彼等ではなく――彼自身だった。
沙織の言う通り、瞬を誤解させ、瞬を不安にしてしまったのは、星矢たちの無責任な煽りなどではなく――その真の責任と原因は、自分の気持ちをしっかりと瞬に伝えていなかった男の上にこそあったのだ――。






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