「あれがエリス主催イベント以上の大イベントかよ? トロイア戦争どころか、氷河が暴れて凍っただけじゃん」 わざわざグリーンランドまで出掛けていって、星矢と紫龍がしたことは、自分の凍気で凍ってしまった氷河をヘリの中に運び入れる作業だけだった。 決してトロイア戦争以上に盛大な戦いを期待していたわけではないのだが、これでは大山鳴動して氷河一匹、アテナの最初の掛け声の威勢がよかっただけに竜頭蛇尾もいいところである。 アテナが企てたにしてはあまりにささやかな催し物に、星矢は正直 気が抜けてしまっていた。 そんな星矢に、瞬がいつも通りの笑顔を向ける。 「アテナはアフロディーテの迷いを知っていて、彼に気持ちの整理をつけさせてあげたかったんだと思う。贖罪もできずに、うやむやなまま仲間の許に戻って……黄金聖闘士たちが彼を責めもせずに受け入れてくれたから、アフロディーテはかえって気まずかったんじゃないのかな。はっきりした けじめもつけずにうやむやのまま――っていう状態が美しくないって、彼は思ってたみたい。人が生きていたら、何もかもすべてが綺麗に割り切れることの方がまれなのに」 「沙織さんは、アフロディーテひとりのために、ハーデスにポセイドンにアポロンまで駆り出して、この騒ぎを引き起こしたのかよ!」 「彼女の可愛い聖闘士のためだもの。神様方を利用することくらい、アテナにとっては大したことじゃないんだよ」 そう考えれば、今回の騒動は大掛かりすぎたイベントである。 だがアテナなら、確かにそれくらいのことは平気の平左で しでかしかねなかった。 「あー……何だ。イベントの目的が世界の平和なんていう壮大かつ抽象的なものでなく、アフロディーテの気持ちの整理という卑近かつ具体的なものだったから、適切な対応策を講じることもできるという、あれだな。まあ、うまく収まってよかった」 「アテナの聖闘士管理方法って、氷河の戦い方とおんなじかよ。身近で小さなところから、ちまちまこつこつ――って?」 「アフロディーテの気持ちを整理させて、心置きなく戦えるようにすることが、最終的に地上の平和を守ることにつながると、アテナは考えたんだろうな」 大きな目的の実現は、小さな成功を積み重ねていくことで成し遂げられるものなのだろう。 そして、アテナは、彼女の聖闘士を守り導くためになら、神々をすら道具にしてしまう、まさに大いなる母のごとき豊かな愛を持った存在なのだ。――彼女の聖闘士たちにとっては。 これが魚座の黄金聖闘士でなく、天馬座の青銅聖闘士のことであっても、龍座の青銅聖闘士のことであっても、彼女は同じことをしたに違いない。 自分が 知恵と戦いの女神にこれほどまでに愛されているアテナの聖闘士であることを喜ぶべきか悲しむべきか、星矢と紫龍は実に複雑な気分になったのである。 「ま……まあ、深く考えるのはやめようぜ。それより、瞬。あの賢明な馬鹿を、そろそろどうにかしろよ」 「あ、忘れてた」 星矢が指し示した“賢明な馬鹿”とは、もちろん白鳥座の聖闘士のことである。 へたに解凍すると氷河はアフロディーテに何をしでかすかわからないというので、彼の仲間たちは今まで彼の蘇生を先延ばしにしていたのだ。 教皇の間に凍りついた氷河を運び、瞬が得意の小宇宙で白鳥座の聖闘士を解凍する。 ピンク色の小宇宙に温められ蘇生した氷河に口をきく隙を与えず、瞬は彼に抱きついていった。 「氷河ってば、たった一人で冥界三巨頭と金銀の神様たちを倒したんだって? すごいね! 氷河って、黄金聖闘士12人を合わせたより強いよね!」 自分はいつかどこかで何か非常に腹の立つ光景を見たような気がする――と、氷河は思うことは思ったのである。 しかし、瞬の手放しの称賛と抱擁は、彼の記憶の再生をあっさりと阻止してしまった。 「おまえを取り戻すためなら、俺はどんな敵も倒してみせる」 なぜ自分は瞬の解凍小宇宙の世話になる羽目に陥ったのか、その理由を瞬に問い質す機会も、氷河には与えられなかった。 「ありがとう。でも、無茶はしないでね。氷河の身に何かあったら、僕が悲しむってことを忘れないで」 「も……もちろんだ。俺がおまえを悲しませるようなことをするはずがない」 なぜなのかはわからないが、今日の瞬はいつにも増して可愛らしく、その感触が甘い。 氷河はすっかり瞬に懐柔され、そして、満悦の なにしろ氷河の生の究極の目的は、瞬に愛され、瞬を愛することなのだ。 その目的の達成を実感できている現状で、彼に不満が生じるはずもない。 「無茶も何も、氷河にいちばん大きなダメージ食らわせたのは瞬だろ」 仲間としても男としても情けなさすぎる氷河のありさまに、星矢は失望と落胆を覚えずにはいられなかった。 が、氷河はこんなふうに飼い馴らしておかないと、何をしでかすかわからない男。 瞬に任せておくしかない男なのだ。 そして、その瞬の命は――。 「瞬の命は、今はアテナの手元にあるそうだ。瞬を味方にしておけば、氷河はいくらでも頑張るわけだし、まあ妥当な落ち着き先だな」 「一輝もだろ。アテナってアタマいいよな。さすがは知恵の女神」 アテナの狡猾につい感心してしまった星矢の胸に、ふと小さな疑念が生まれてくる。 瞬はアテナに釣られ、氷河と一輝は瞬に釣られて、地上の平和を守るための戦いを戦っている。 では、天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士は、いったい何のために戦っているのだろう――? 「なあ。じゃあ、俺たちは何に釣られて、アテナの聖闘士なんかしてんだよ?」 「しいて言うなら、氷河と瞬を見ているのが面白いから、かな」 究極の目的としては“地上の平和”という大層なものがあるにしても、それはあまりに小さく低俗な釣り餌である。 「サイテー」 紫龍の言を否定できない自分の情けなさに失望し、星矢は心から嫌そうに顔を歪めた。 だが現実に、世界の平和は そんなふうに守られているのだ。 Fin.
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