「瞬」
ふいに、氷河が瞬の名を呼ぶ。
瞬はびくりと身体を震わせた。
恐る恐る視線を氷河の方に向ける。
そこには相変わらず冷静な――今は、夏空というよりも 北の国の海の色に似た冷たい青色をたたえた瞳があって、それは非常に不機嫌そうに瞬を睨んでいた。
その瞳を見て、瞬はほっと安堵したのである。
彼は、瞬を止めようとしたわけではない。
彼は彼の奴隷の命が消えようとしていることを悲しんではいない。

「何も言わずに死ぬ気か」
「言いません。口が裂けても――死んでも言わない」
氷河は今更なぜ そんなわかりきったことを訊くのかと、瞬は切ない気持ちになった。
彼は彼の奴隷を哀れんではいなくても、信じてくれてはいるのだと思っていたのに。

「俺の名のことじゃない。俺への恨み言とか非難とか罵倒とか、いくらでも言いたいことはあるだろう」
氷河の言葉は、瞬を驚かせた。
というより、面食らわせた。
奴隷が、彼の主人に対してそんなことができるわけがないではないか。
奴隷は――自分が奴隷であることを受け入れている奴隷は――自らの主人に忠誠の念しか抱かないものである。
主人への忠誠と忠義を全うできることに誇りを持っていなければ、奴隷は奴隷でいられない。
主人の立場にある者も、彼の奴隷には それのみを求めているもののはずである。
瞬はそう思っていた。

氷河が王の隣りの場所から降り、ゆっくりと瞬の側に近付いてくる。
氷河が彼の奴隷に何を求めているのかがわからずに呆然としている瞬の手から、氷河は乱暴な所作で剣を奪い取った。
「あ……」
奴隷の忠義を全うするための手段を取り戻そうとした瞬の手を、氷河が掴み上げる。
その手を放さずに、彼は瞬の瞳を睨むように見詰めてきた。

「おまえが無慈悲な男のために命を懸ける訳を教えてくれ。姫には教えられなくても、俺になら教えられるだろう」
「いいえ」
「なぜ」
「あなたは知らない方が幸せでいられるから。あなたの幸せだけを祈っています」
エリス姫の前で氷河の名を口にしてしまわないように言葉を選んで、瞬は言った。

「おまえは……!」
それは氷河のための注意深さだったというのに、氷河はそれも気に入らなかったらしい。
彼は、苛立ったように瞳の青色を濃くし、声を荒げた。
「俺は確かに恋に命を懸ける愚か者だ。だが、後悔はしない。俺は、この恋にはそれだけの価値があると信じているんだ」
「はい」
瞬が頷く。
氷河が彼の恋の成就を心から望んでいるのだと思えばこそ、瞬もそのために――彼を幸福にするために――命を懸けることに ためらいを覚えずにいたのだ。
瞬は迷わずに頷いた。

瞬のその様子を見た氷河の声が、更に苛立たしげなものに変わっていく。
苛立たしげに――氷河は瞬を頭から怒鳴りつけてきた。
「そうじゃない! おまえは、この俺が本当に こんなにも たやすく人の命を奪うような残虐な女に恋をしていると思うのか? この国の王女は、先祖の姫君の恨みがどうとかこうとか馬鹿げた理由をこじつけて、罪もない者の命を奪う最低最悪なサディストだ。人の痛みも理解できない想像力の欠如した馬鹿な女だ!」
すぐそこに王女がいるというのに、氷河は、声を抑えようとしていない。
どう考えても、氷河の怒声は王女の耳に届いている。

「氷河……声が大きすぎ……」
「おまえには小さな声では聞こえないんだろう !? 」
奴隷の懸念と警告を遮って、氷河は彼の言いたいことを言い続けた。
もちろん、声をひそめることなどしようともせずに。
「俺は俺の母の死を見てきた。人が生きていることの幸福と喜び、人の命が消えることの つらさと悲しみ、それがどういうものなのかを、俺は知っている。その俺が、こんな冷酷で馬鹿な女に惚れると思うか!」

「あ……」
氷河が言い募る言葉の意味と、おそらくは氷河の生殺与奪の権をも その手にしているエリス姫の怒り。
そのどちらを より気にかけるべきなのかに迷って、瞬は身体を縮こまらせた。

「おのれ、聞いていれば、この私を馬鹿馬鹿馬鹿と連呼しおって――」
エリス姫が、怒りのために上擦った声で、なにやらわめき始めている。
瞬は氷河のために 姫の前に身を投げ出して彼女の怒りを静めたかったのだが、瞬を見詰める氷河の瞳の力が、瞬にそうすることを許してくれなかった。
瞬は、氷河の瞳から視線を逸らすことができなかった。

氷河はエリス姫の怒りを無視した。
あるいは、彼の耳には、エリス姫の声が本当に聞こえていなかったのかもしれない。
「おまえはどうしてそんなに依怙地なんだ。おまえの心は、あのサディスト姫より頑なだ。永遠に溶けない氷のように冷たい」

「そんな……僕がどうして……」
氷河のことだけを見詰め、その幸福だけを願っている者の心を『氷のよう』とは、いくら何でも残酷がすぎる。
つらく、苦しく、悲しすぎる。
氷河が告げた言葉に衝撃を受け、瞬は――瞬もまた―― 一瞬 エリス姫の存在を忘れた。

「だが、溶かしてみせるぞ」
瞬の悲しみと傷心に気付いた様子もなく、氷河が宣言する。
否、彼は気付いているようだった。
だが、あえて無視している。――ように、瞬には見えた。

「俺の名なんてどうでもいいんだ。おまえの名を教えてくれ。おまえをそこまで強くするものの名。おまえをそこまで依怙地にするものの名。頼む。俺の口からは言えない」
「……どうして」
どうして氷河がそれ・・を口にすることができないのか。
言うことを禁じられている奴隷ならともかく、氷河は、彼の奴隷に対してどんな振舞いをすることも許される、奴隷の主人――支配者――ではないか。
瞬はそう思ったのだが、まさしく その事実こそが、氷河に沈黙を強いる理由であったらしい。
奴隷の支配者は、彼の奴隷に何をしても許される――という事実が。

「俺がその名を口にしたら、おまえは俺の命令に従うだろう。その心がどうであれ。おまえは、俺が俺の国を失い、俺が一国の王子でなくなっても、俺の奴隷でいることをやめてくれなかった。俺を王子としてしか見てくれなかった。俺はおまえの前に、おまえの主人としてしか立つことができなかった」

まるでそれが彼の名誉を傷付ける大罪ででもあるかのように氷河は言うが、瞬には、彼の非難する事柄が、彼に責められるようなことだと思うことができなかった。
奴隷が奴隷として生きることに、どんな非があるというのだろう。
瞬は、物心ついた時には、既に奴隷だった。
奴隷として、北の国にいた。
生まれた瞬間から奴隷だったのかどうかまでは知らなかったが、瞬のために神が用意してくれていたものは奴隷としての境遇と生き方だった。
自分に与えられたものの中で、ささやかな喜びや幸福を見付けながら、瞬はこれまで必死の思いで自らの生を生きてきたのだ。

それを罪人のように責められてしまっては、奴隷がこの世に存在することさえ許されなくなってしまう。
氷河が、そんな奴隷の生き方が不快だというのなら、では彼の奴隷はいったいどうすればよかったのか。
どうすれば彼の心に添うことができたのか――。
奴隷である瞬には、奴隷でない氷河が自分に望むことがわからなかった。






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