氷河の難詰に為す術もなく呆然としている瞬に、氷河が尋ねてくる。 「俺が俺の国を失った時、俺がどうやって自分の心を立ち直らせたのかを、おまえは知っているか」 責めるような口調で問うてくる氷河に、瞬は力なく首を横に振ることしかできなかった。 故国を失った落胆と傷心から氷河が既に立ち直っていたことさえ、瞬は知らなかったのだ――今初めて知った。 だからこそ瞬は、エリス姫との恋が、彼女への恋の成就が、氷河を力づけ、氷河を立ち直らせてれることを期待して、自らの命を捨てようとしたのだ。 その答えを知らない瞬に、氷河が告げた“正答”は驚くべきものだった。――瞬にとっては、 「これで俺は王子ではなくなる。俺はすべての義務と責任と王子の名から解放された。やがて蘇った北の国の住人は、俺よりもっとましな王のもとで幸福になるだろう。俺は自由だ。俺はやっとおまえと対等な一人の人間になることができる――そう考えて、俺はおまえと共に北の国をあとにしたんだ」 ――と、氷河は瞬に告白したのだ。 「氷河……」 そんなことを、彼は考えていたのだろうか。 だとしたら、北の国が眠りについた時、彼にかしずく者たちをすべて失ってしまった この人に、せめて自分だけは永遠に仕えようと決意した彼の奴隷は、あの時からずっと主人の期待を裏切り続けてきたことになる――。 「俺は、冥界の王が俺の恋を実らせるために、俺の国を束の間 眠らせてくれたのかもしれないとさえ思った。この馬鹿姫の謎解きに挑戦したのも、そうすればおまえが『愛しているからやめてくれ』と言って俺を止めてくれるんじゃないかと期待したからだ」 「……」 そこまで言われて、瞬はやっと、これまでの氷河の不機嫌と刺々しい態度の訳を知ることになった。 彼の奴隷に いつもいつも期待を裏切られていた氷河が、彼の奴隷の前で いつもいつも不機嫌だったのは当然のことである。 「おまえは俺の本当の名を知らない。幾度俺の本当の名を伝えたかったか……。だが、おまえが俺を北の国の王子と見ている限り、俺を自分の主人と見ている限り、そして、おまえが自分を奴隷だと思っている限り、俺には言うことができなかったんだ。おまえの主人である俺が、おまえにそれを求めたら、それは命令になってしまう。忠義なおまえは、『俺のものになってくれ』という俺の懇願すら、ただの命令として受け取り従ってしまうだろう。俺はただ、おまえに、俺をおまえと同じ対等な一人の人間として見てほしいだけなのに」 「氷河……」 どんな時にも彼の幸福だけを願ってきた。 だが、氷河の望む彼の幸福は、一国の王子としての栄誉と権勢ではなかったのだ。 「なのに、おまえは俺を最後まで拒むのか。冷たい心を持った馬鹿な王子のために、その馬鹿王子より冷たく頑なな心を守ったまま 死んでいく自分に満足して、そうして俺を一人にするのか」 「あ……」 「答えてくれ。おまえの名は“奴隷”か。それとも“犠牲”か。おまえをこのまま死なせてしまったら、俺の名は“愚か者”になってしまう。“不幸”になってしまう。俺は――俺は、愚か者にも不幸な人間にもなりたくはないぞ」 「氷河、僕は――」 瞬とて、氷河をそんなものにはしたくなかった。 だが――奴隷にそんなことが本当に許されるのだろうか。 氷河の名を“奴隷の恋人”などにすることが? 瞬にはできなかった――できそうになかった。 それは、奴隷ごときが望んでいい幸福ではない。 それは、決して夢見てはならないと、瞬が自戒し続けてきた夢であり希望だった。 今更そんな夢を見てしまったら、これまで奴隷として生きてきた自分の時間は――人生は――いったい何だったのだ。 瞬は、見てはならぬ夢を恐れて、氷河の前からあとずさろうとした。 ここまで言われても奴隷であることをやめようとしない瞬の腕を、氷河が掴みあげる。 一国の王子として生まれても、世界はいつも彼の望む通りに存在してはくれなかった。 冬がくれば花は枯れ、優しかった母の命は病に奪われ、彼を王子たらしめていた故国も消えていった。 それでも、そのたびに新しい希望を探し出し、その希望を叶えるために歯を食いしばって彼は生きてきた。 瞬は、他のすべての希望を失った氷河の最後の希望だったのだ。 「瞬。おまえが死んだら、俺も死ぬぞ。希望を失った人間がどうやって生きていけるというんだ。おまえは俺を不幸な愚か者として殺したいのか !? あの高慢な姫より残酷に!」 「だって――」 どうして氷河は、懸命に奴隷の分をわきまえようと努め、彼の幸福だけを願って生き死んでいこうとしている人間をそこまで責めることができるのか。 瞬の瞳には、涙がにじんできてしまったのである。 「だって、言えなかった……言えなかった。言っちゃいけないことだと思った。氷河は――」 瞬は、自分に その言葉を口にする権利があるなどとは考えたこともなかったのである。 「氷河は、国を失ったことを悲しんでいて、責任を感じていて、つらそうで苦しんでいて、なのにそんなこと」 「おまえが俺を対等な人間として見てくれなかったのが、つらくて悲しかったんだ」 「エリス姫は美しくて、氷河に与えられるものをすべて持っていて――」 「おまえの美しさの足元にも及ばない。 「ぼ……僕はただの奴隷で」 「俺は、一人の人間としてのおまえが、一人の人間である俺の前に立ってくれたら嬉しいと思うが」 「僕は――」 それでもなお食い下がり続ける瞬に、氷河は本気で怒りを覚え始めていた。 その手で、瞬のそれ以上の反駁を制止する。 この恋の成就を阻む者は、たとえそれが神であっても、氷河は許すつもりはなかった。 「永遠に溶けない氷の国の王のように頑な心を持った瞬。俺が知りたいのは、おまえが俺を愛しているのかどうか、おまえが俺に愛されることを望んでいるのかどうか、それだけだ」 「氷河……」 奴隷ではなく一人の人間として、それを望むことが自分に許されるのだろうか。 もし本当にそれが許されるのなら――。 「あ……あ……」 瞬が苦しげに呻き、俯く。 もし本当にそれが許されるのなら――。 「瞬……!」 瞬の苦しげな呻きを頑なな拒絶と思ったのか、氷河の声が彼らしくなく悲鳴じみてくる。 瞬は慌てて首を横に振った。 「そ……そうじゃなくて……! こ……こんなに人がいっぱいいるところで、僕、そんなこと言えない……!」 氷河にそう訴える瞬の瞳は、越えてはいけないのだと信じてきた壁を乗り越えるために決死の覚悟で奮い起こした勇気と 羞恥のために熱く潤み、そして燃えていた。 瞬は、奴隷として生きてきた。 だが、奴隷という身分を与えられるより先に、瞬は自由な心を持った一人の人間として生まれてきたのだ。 もし本当にそれが許されるのなら――。 その瞬間に命を失うことになるのだとしても、瞬はもちろん その夢を自分の手で掴みたかった。 |