沙織のために城戸翁が造ったというプラネタリウム。 瞬が、城戸邸の屋上にある そのプラネタリウムに足を踏み入れるのは、これが初めてだった。 沙織が彼女のプラネタリウムに置くために天球儀を購入したというので、瞬はその見学にやってきたのである。 天文学に特に興味があるわけではないのだが、沙織がその話を持ち出した時、星矢があまりにも あからさまに『そんなものには興味がない』という態度をとったので、瞬は非常にいたたまれない気分になり、思わず「ぜひ拝見したいです!」と言ってしまった――のだ。 氷河が同伴してくれたのは意外だったが、彼自身は天球儀になど興味はないのだろう。 沙織とのやりとりは専ら瞬に任せて、彼はプラネタリウムの扉の前でだんまりを決め込んでいた。 お付き合い程度の気持ちでやってきた沙織のプラネタリウムは、しかし、瞬にとってなかなか興味深いものだった。 「これが天球儀――ですか?」 何といっても、沙織のプラネタリウム初訪問の目的である天球儀が、瞬のイメージしていたものと全く違っていたのだ。 「まるで、紙を貼る前の 瞬の正直な感想に、沙織が少々複雑そうな顔になる。 しかし、瞬としては、この物体の姿を言い表わす適切な表現を他に見付けることができなかったのだ。 沙織のことであるから 庶民的で可愛らしい天球儀がそこにあるとは、瞬も思ってはいなかったが、それにしても、瞬の目の前に現われた物体は、瞬の見知っている天球儀とは様相が異なっていた。 瞬は、地球儀のような球体に星が描かれたオブジェのようなものを想像していたのだが、沙織が瞬に示したものは、細かく複雑な目盛りの刻まれた8つの金属製のリングが複雑に組み合わされた、どう見ても“機械”だったのだ。 直系は2メートルほど。 中に人間が立つこともできそうな大きさである。 絡み合うリングの中心に、小さな地球が置かれていた。 「天球儀って、何ていうかこう、地球に透明なボールをかぶせて、そこに夜空を映し出したようなものを言うのかと思ってました」 瞬がこれまでに見たことのある天球儀は皆そういう形をしていた。 球体の表面に映し出される星々の姿の描かれ方は、種々様々であったにしても。 「そういう地球儀タイプのものもあるわね。これは、アーミラリ天球儀というの。“虚ろな天球儀”という意味よ。プトレマイオス型のアーミラリ天球儀」 言いながら、沙織が複雑に絡み合うリングの天頂のナットを動かすと、それぞれのリングが連動して動き、夏の空の星の位置を現わした――らしい。 「プトレマイオス型? 天球儀って、形状での区別以外でも色々なタイプがあるんですか?」 「ええ、天球儀には、基本的にプトレマイオス型とコペルニクス型の2種類があるの」 「どう違うんですか?」 「プトレマイオス型の中心にあるのは地球、コペルニクス型の中心にあるものは太陽。簡単に言えば、プトレマイオス型天球儀は地球中心宇宙体系を現わしたもの、コペルニクス型天球儀は太陽中心宇宙体系を現わしたもの――ということになるわね」 「それで何がどう違ってくるんですか? 広大な宇宙からしたら、太陽の位置と地球の位置の違いなんて無きに等しいもののような気がしますけど」 おそらく自分は小学生レベルの質問をしている――と、瞬は薄々感じてはいた。 が、地球から見上げる夜空と太陽から見上げる夜空がそんなにも違うものなら、瞬にはそれはとても不思議なことに思えたのだ。 二つの星は、キロメートル単位で距離を言えるほどに近い星――ほとんど同じ位置にある星だというのに。 瞬の素人丸出しな質問に呆れた様子もなく、沙織が浅く質問者に頷いてみせる。 「何より、地球と太陽の位置が違うでしょ。ちょこまかちょこまか動き回って位置を変える地球を中心に置く宇宙と、自転はしても公転はしない太陽を中心に置く宇宙とでは、相当大きな違いがあるわよ」 「あ、それはそうですね」 わかったようでわからない――というのが瞬の本音だったのである。 が、瞬は、とりあえず この場は沙織に頷いた。 これ以上詳しい説明を聞かされても理解できないような気がしたし、それは無理に理解しなければならないことではないように思われた。 宇宙とはひたすらに広大なもの。 星とは、どこまでも美しいもの。 それが瞬の宇宙観だった。 それで、人が生きていくのに何の支障もない。 「沙織さんは本当に星が好きですね」 難しいことはわからない――が、沙織が星の世界に並々ならぬ関心と愛着を抱いていることは、瞬にもわかった。 普段の沙織は、どれほど高価なものや稀少なものを購入しても、それを彼女の聖闘士たちに知らせたりすることはない――それをひけらかすようなことはしない。 まして、『ぜひ見にいらっしゃい』などと言うことはなかったのだ。これまで一度も。 しかし、この天球儀のために、彼女はそれをした。 彼女のプラネタリウムにやってきたこの天球儀――彼女の星の世界を彩るこの機械が、沙織にとってはそれほど誇らしいものなのだろう。 ここは沙織だけのためにあるプラネタリウムだった。 このプラネタリウムに、沙織は、大きな障害に出合うたびに一人で閉じこもる。 そして、ここから出てきた時にはいつも、沙織の表情からは迷いが消え、その瞳や唇には何事かを悟ったように確かな意思がたたえられているのだ。 「ええ、とても好きよ。星も、このプラネタリウムも。お祖父様が私にこのプラネタリウムを作ってくださった訳がわかったのは、ずっとあとになってからのことだったけど」 城戸翁が、女神アテナのためにプラネタリウムを作った訳。 特に天文学者を志しているわけではない人間のために、娯楽や星への興味を満たすこと以外、プラネタリウムを作ることにどんな意味や理由があり得るというのだろう。 城戸翁の意図は、瞬には測りかねるものだった。 沙織が 亡き人を懐かしむように目を細め、今は星々の姿を映し出していない虚空を見詰める。 「ここで星の中にいると、自分がとても小さな存在に思えてくるの。ああ、私は、この広い宇宙の中では無にも等しい存在だと思えてくる。でも、自分を無だと思った途端に、私は宇宙に同化して、今度は無限大の存在になるのよ」 「無から無限大ですか」 言葉だけ聞いていると、とんでもない飛躍だが、その二つは人間が実際にその手にできないものであるという意味で、同じものである。 そういうこともあるのかと、瞬は頷くように僅かに首をかしげた。 「神の意識は一つでも、それは全宇宙に遍在するものだということか」 それまで黙っていた氷河が、ふいに低い声でぼそりと呟く。 瞬は、天球儀を視界に入れようともしない氷河は いったい何のためにここに来たのかと訝っていたのだが、彼は一応、瞬と沙織のやりとりを聞いてはいたらしい。 氷河の言葉に、沙織が首を横に振る。 「自分がアテナだと自覚する以前から――このプラネタリウムに来て星の中に身を置くたび、私はその感覚を体験してきたわ。多分、あの感覚は、人間すべてが共感できる感覚だと思う」 沙織はそう信じているようだった。 神ではなく、ごく普通の人間にも、無であることと無限であることの両方を同時に実感することはできる――と。 「あなた方も、いつでもこのプラネタリウムに入っていいのよ。ぜひあの感覚を体験してほしいわ」 「ええ、そのうちにきっと」 沙織の厚意に感謝して そう答えはしたが、ここは沙織の神聖な場所である。 そして、大切な思い出のある場所。 気安く利用するわけにはいかないだろうと、瞬は思っていた。 |