沙織のプラネタリウムを出てラウンジに戻ると、そこには沙織の招待を実に無邪気に辞退してのけた星矢がいた。
瞬と氷河の帰還に気付くと、あからさまに物好きを見る目を仲間たちに向けてくる。
「お帰り〜。どうだった? 沙織さんの天球儀とかって代物は?」
最近 戦いらしい戦いもない。
のんびりした口調で尋ねてくる星矢に、瞬は、そんなことを訊いてくるくらいなら、特に用があるわけでもないのだから一緒に来てくれればよかったのにと思ったのである。

「さすがは沙織さん。そこいらの天文台にもないような大層なものだったよ。大きくて複雑で綺麗で――」
「どーせ、滅茶苦茶高いもんなんだろ」
星矢の関心は、そういう方面に向いているらしい。
星矢の推察は、だが、否定できるものではなかったので、瞬は小さく頷いた。
「特注で作らせたものだそうだから……。軽自動車一台分くらいの値段はしそうだったね」
瞬の返事を聞いた星矢が、大袈裟に肩をすくめる。
「金持ちって奴は、なんで食えないもんに金かけるかなー」

星矢の感想は実に生活感に満ち、かつ非常に庶民的なものだった。
そして瞬は、自分の価値観が、沙織のそれより星矢のそれに近いことを認めないわけにはいかなかったのである。
沙織の哲学的な意見は理解が難しかったが、星矢の感想は、同感できるか否かはさておいて、理解に苦しむものではない。
そんな自分に苦笑しながら、瞬は星矢の掛けているソファの向かいの椅子に陣取った。

「天球儀にはプトレマイオス型天球儀とコペルニクス型天球儀があるんだって。知ってた?」
「プティレモンパイとコンペイトー?」
星矢を支配しているものは、生活観というより食欲のようだった。
自分が、星の界に身を置き無限を感じていた沙織より、この星矢の方により近い人間なのだということに、瞬は少々の落胆を覚えてしまったのである。

脱力したように両の肩を落としている瞬に同情したのか、紫龍が瞬と星矢の会話に軌道修正をかけてくれた。
「さしずめ、瞬がコペルニクス型天球儀、氷河がプトレマイオス型天球儀だな」
「え?」
「宇宙の中心に地球じぶんがいる氷河と、地球じぶん以外の太陽だれかを宇宙の中心に据えているおまえ。普段の生活でも戦いの場でも、性格が出るもんだ」

「紫龍、天球儀、詳しいの? 一緒に来れればよかったのに」
沙織が青銅聖闘士たちを彼女のプラネタリウムに招待した時、紫龍はちょうど外出していたのだ。
「中国は、ある意味本場だぞ。ギリシャで最初の天球儀が作られたのは紀元前3世紀だろう。中国では紀元前4世紀には既に、かなり原始的な構造ではあるが天球儀が作られている」
「へえ、そうなんだ」
瞬が中国4千年の歴史に素直に感心して頷いたのは、先に紫龍が告げた『氷河=プトレマイオス型,瞬=コペルニクス型』という見解に異議を覚えなかったからだった。
その見解は、瞬にとっては引っかかるところのない、言ってみれば 聞き流してしまえるようなものだったのである。

「占星術の盛んな国だものね。確か、司馬仲達は大きな星の落ちたのを見て、諸葛孔明の死を察知してた」
「ソースカツと米?」
星矢が横から口をはさんでくる。
どうやら星矢はどうあっても、遠い星の世界の話ではなく、もっと地に足のついた話をしたいらしい。
星矢の親父ギャグめいた発言は、ただの聞き違いではなく、彼の意識・無意識が無理にこじつけたものとしか思えない代物だった。
瞬は呆れた顔で天馬座の聖闘士を見詰めることになったのである。

「星矢、おなか減ってるの? 何かおやつ持ってこようか?」
途端に、星矢の顔がぱっと明るく輝く。
大きく何度も こくこくと、星矢は首を縦に振った。
「そう言ってくれんの待ってたんだよー。あのさ、俺、パンケーキ食いたいんだ。厨房のおばちゃんが作ったやつじゃなく、おまえの焼いたやつ」
「僕の方がへたなのに……。調理師さんの方がなめらかでふんわりしたパンケーキを焼けるよ。なんったってプロだもの」

瞬の至極尤もな言葉に、星矢が今度は大仰に首を横に振る。
「俺はさ、おまえが作る、あの月のクレーターみたいにぶつぶつ穴のあいた不恰好で素朴なパンケーキが食いたいんだよ! あれ、星華姉さんの焼いてくれたやつにそっくりなんだ」
「褒められてるんだか、けなされてるんだか……」
星矢の賞讃は、素直に手放しで喜ぶことの難しいものだった。
それでも仲間のリクエストに応えようとして、瞬は腰をおろしたばかりのソファから立ち上がりかけたのである。

そんな瞬の動きを止めたのは、氷河の声――まるで太陽系の外縁にある天体のように、星矢たちから離れた場所で仲間たちのやりとりを眺めていた氷河の声――だった。
その声はあまり機嫌がよさそうではなく――もとい、明白に不機嫌だった。
「自分が宇宙の中心にいるプトレマイオス型は俺より星矢の方だろう。小物のくせに自分では動かず、周りの星を動かして、ふんぞりかえっている」

吐き出すように星矢にそう言うと、彼は、今度は瞬の方に視線を巡らせてきた。
「おまえも ほいほい星矢に使われているんじゃない。見苦しい」
「え……」
思いがけない言葉を投げつけられた瞬が驚きに瞳を見開く。
瞬のそんな反応が、氷河の苛立ちを更に大きなものにしたらしい。
氷河はぷいと横を向いて、そのままラウンジを出ていってしまった。

消えてしまった白鳥座の聖闘士と、すっかりしょげかえって、また椅子に戻ってしまったアンドロメダ座の聖闘士。
星矢は、こうなった理由が理解できず、氷河の姿を飲み込んでしまったラウンジのドアと、肩を落として俯いている瞬の姿とを、幾度も交互に見やることになってしまったのである。
氷河が天馬座の聖闘士に腹を立てていたらしいことはわかったのだが、当の星矢には、自分が氷河を怒らせるようなことをした覚えが全くなかったのだ。

「あいつ、何怒ってるんだよ」
「そりゃあ、おまえが好き勝手に瞬を使うから――」
氷河の態度も褒められたものではないが、星矢の自覚のなさも あまり賞讃できるものではない――と、紫龍は思っていた。
が、氷河に気を遣えと星矢に言ったところで、氷河同様プトレマイオス型人間の星矢には、なぜ自分がそんなことをしなければならないのかが得心できないに違いないのだ。
よって、星矢への忠告は無駄であり、紫龍は無駄なことはしない主義の男だった。

言ってみれば、これは、二つの太陽の引力圏が一部重なっているために起こる不都合なのである。
二つの太陽のテリトリーが重なることなく完全に独立していれば問題は生じないのだが、恒星ならぬ人間は、自分以外の人間と全く独立して存在することはできない。
常識と価値観の違う二つの太陽の調停を行なうことの困難を思い、紫龍は我知らず溜め息をついてしまったのである。
そこに、もしかしたらこの城戸邸で唯一コペルニクス型であるかもしれない人物の小さな声が割り込んできた。

「僕、氷河に嫌われてるのかな……」
「なに?」
「氷河、最近、僕の顔を見るたびに怒ってるんだ。僕、自分でも気付かないうちに、氷河の気に障ることをしちゃってるのかもしれない……」
「いや、それは――」

コペルニクス型の人間は不必要なほど他人の気持ちを気にかけ、少しは他人の気持ちをおもんぱかった方がいいプトレマイオス型の人間は、一向にそんな素振りを見せない。
これを“性格の相違”の一言で片付けてしまっていいのかと、紫龍は大いに困惑することになってしまったのである。
「おまえが氷河に嫌われてるなんて、それはないない」
困惑しつつも紫龍が言おうとした言葉を、先に星矢が口にする。
確信に満ちた星矢の断言にも、だが、瞬は浮上する気配を見せなかった。
「パンケーキ、焼いてくるね……」
がっくりと両の肩を落とした瞬は、おそらく沈んだ様子を見せて仲間たちまでを憂鬱な気分にさせないために無理な笑顔を残し、ラウンジを出ていったのである。


「氷河が瞬を嫌ってるなんて、それはないよなー?」
氷河と瞬のいなくなったラウンジで、このトラブルの種を蒔いた当人が、その場に残ったただ一人の仲間に確認を入れてくる。
「ないだろうな」
紫龍は、こればかりは迷うことなく星矢に頷き返した。
そうしてから紫龍は、星矢がその言葉を特に根拠があって言っているのではないという事実に嘆息することになってしまったのである。

自分中心型宇宙観の持ち主は、氷河の言動を注意深く観察し、その心を思い遣って、その結論に至ったわけではない。
星矢は、ただ直感で そう感じているだけなのだ。
その直感が正鵠を射ていること――滅多に外れないこと――が、星矢に自分を顧みることをさせないのである。
地球の性格によって宇宙のあり様も随分違ってくるものだと しみじみ思い、紫龍は重ねて嘆息した。






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