翌日――。
冬場なら とうの昔に太陽の没している時刻だというのに、真夏の太陽はまだ堂々と その全身を空に置き、明るく地上を照らしている。
がれと言える程度の闇でもあれば、誰にも見付からずに自室に辿り着ける可能性も高くなるのに――と、瞬は夏場の太陽を少々恨んでしまったのである。
せめてこれが昨日の今日でなく、もう幾日か後のことだったなら、氷河の不機嫌も和らいでいたかもしれないのにと、瞬はこの運命の巡り合わせを恨んでさえいた。

今 城戸邸の門前に立っている瞬の姿は、頭から爪先まで全身がずぶ濡れ状態だった。
もちろん、雨に降られたわけではない。
プールや海水浴場に着衣のまま飛び込んだのでもなく――瞬は、決して衛生的とは言い難い水にかることを余儀なくされ、こういうことになってしまったのだった。

玄関から自室まで誰にも――特に氷河には――見付かりませんように。
瞬が、ほとんど祈る気持ちで城戸邸の敷地内に一歩足を踏み入れた途端、
「瞬、どうしたんだよ、そのカッコ」
という星矢の声が響いてくる。
声のした方に瞬が視線を巡らせると、そこには星矢と、そして瞬が今最も顔を合わせたくない人物が立っていた。

夏場の太陽の灼熱など物ともしない星矢と、陽光が貴重な国に長く住んでいた氷河は、夕涼みにはまだ早い時刻だというのに、庭に出ていたらしい。
瞬の祈りは、『玄関から自室』どころか、その玄関に辿り着く前に はかなくついえてしまったのだった。
氷河が お世辞にも華麗とは言い難い姿の仲間を無言で睨んでいるのを見てとって、瞬は全身を縮こまらせた。

見付かりたくはなかったが、見付かってしまったものは今更どうしようもない。
「あ、うん。せ……説明はシャワー浴びて着替えてから――」
お座なりにそれだけ言うと、氷河の睥睨から逃げるような早足で、瞬は城戸邸の玄関に飛び込んだのである。
これで、自分がこんな姿になることになった訳を氷河に説明しないわけにはいかなくなった。
その事実だけで、瞬の心身は鉛の塊りを飲み込まされでもしたかのように重くなった。


「……星の子学園に行く途中に、川の両岸がゴルフの練習場になっているところがあるでしょう。時々子供たちがキャッチボールしたりしてる――」
この公判の検事と主審判事は俺が務める――と言わんばかりに険しい目で、氷河はラウンジの3人掛けのソファの中央に陣取っている。
瞬は、死刑判決に怯える被告人さながらにびくびくしながら、その向かい側の席に座っていた――着席させられていた。
紫龍と星矢は弁護人なのか傍聴人なのか、いずれにしてもその役どころにふさわしい場所に自らの席を選んでいる。

「そこを通りかかったら、小犬が川に流されてて――」
渋面を緩めない氷河を上目使いにちらちら見やりながら、瞬は自分がずぶ濡れになった経緯を、もつれる舌で語り始めた。
瞬は、本当は、氷河にだけはずぶ濡れ状態での帰宅を見咎められずにいたかったのである。
せめて、氷河のいないところで事情の説明をしたかった。
何といっても、氷河が判事では、最初から自分の有罪は確定しているようなものである。
自分の何がそんなに氷河の気に障るのかが、自分では理解できていないだけに、瞬は氷河の判決が恐くてならなかった。

「川に飛び込んで助けたのか。……助けられなかったのか?」
裁判官ではなく傍聴人役の星矢が、あまり軽快ではない口調で尋ねてくる。
助けることができたのなら、川に流されかけて弱っているだろう犬を瞬が連れて帰らないはずがない――と、彼は心配したのだろう。
星矢の不安を払拭するために、瞬は大きく首を横に振った。

「小犬は無事だよ。飼い主に返してきた。小学校の5、6年生くらいの男の子でね。学校で、犬かきっていう泳ぎ方があることを教えられたとかで、本当に犬に犬かきができるのか実験しようとしたんだって」
「犬かきの実験だとぉ !? 」
星矢が、心底から呆れたような声をあげる。

はたしてそれを無垢な子供の子供らしい探究心・向学心と呼んでいいものかどうか。
教育機関は、犬かきがどんな泳ぎ方なのかを児童生徒に教える前に、動物は溺れると死んでしまうのだということを教えるべきだと、おそらく瞬の説明を聞いていた青銅聖闘士たち全員が思っていた。
死がどういうものであるのかを教えずに生きることを強要し、冷酷や無関心が招く事態がどんなものであるのかを教えずに善意や正義を説くような愚を行なうから、子供たちは生きることの意味も、人を思い遣ることの価値も実感できない空虚な人間に育ってしまうのだと、プトレマイオス型人間の典型である星矢でさえ思うことになったのである。

「梅雨の最後の雨で増水しててね。小犬を助けるどころか、僕まで流されそうになっちゃった」
小犬の無事を強調するために、瞬は笑って星矢にそう告げた。
言い終わった途端に、瞬の笑顔が凍りつく。
その言葉を言い終えてから、瞬は、氷河が眉を吊り上げ、怒り狂っていることに気付いてしまったのだった。
息を呑み、言葉を呑み込んだ瞬の上に、果たせるかな氷河の罵倒が飛んでくる。

「おまえは馬鹿かっ! たかが犬一匹のためにっ! おまえが溺れたらどうするんだっ!」
まさか瞬を見下すためというのではないだろうが、氷河は彼がそれまで掛けていた椅子から憤然として立ち上がった。
「ぼ……僕は聖闘士なんだよ。そんなドジは踏まないよ」
「おまえのその自信がどこから湧いてくるのか、ぜひ教えてほしいもんだ」
アンドロメダ座の聖闘士の力を全く信じていないらしい態度で嫌味を言いながら、氷河は瞬の前に仁王立ちになり、今度は明確な怒声を急ごしらえの裁判所に響かせた。
「そんなのは放っておけばいいんだっ」

「放っておくなんてできるわけないでしょう」
「放っておけ! おまえには、そんな犬を助ける義務も義理もない。その義務を負っているのは、馬鹿な実験をした犬の飼い主だろう。そのガキが、川にでも海にでも飛び込めばいいんだ!」
「相手は小学生の子供なの。そんなことできるわけが――」
「できなくてもするんだっ!」

義務を負っていなければ、人は失われかけている命を救うべきではない――と、氷河は言うのだろうか。
そんなことは絶対にない――と、瞬は思った。
それは氷河もわかっているはずである。
わかっていなければ、彼は、誰に頼まれたわけでもないのに地上の平和と安寧のために戦うアテナの聖闘士でいられるわけがないのだ。
わかっているはずなのに――人は義務や責任の関わらないところで、他の命を守い庇うことができるということを、氷河はわかっているはずなのに――彼は“それ”をした瞬を責める。

瞬の不安は、その時確信に変わったのである。
漠然とした不安にすぎなかったその考え――しかし、瞬には、それはもはや疑いようのない事実だった。
氷河は、自分を嫌っている。
嫌いな人間のすることだから、その是非に関わらず、氷河は自分のすることのすべてが不愉快で苛立たしく憎くてならないのだと、瞬は思わないわけにはいかなかった。

「ど……どうして氷河は、どうしてそんなに僕のすること為すことに腹を立てるのっ! 僕は……僕は、氷河にそんなに怒られなきゃならないくらい間違ったことをしてるの! どうして氷河は そんなに僕を嫌うのっ!」
自分が嫌っていない相手に嫌われることほど つらく苦しいことはない。
なぜ自分がそこまで氷河に嫌われるのか、いつのまにそんなにも嫌われてしまったのか。
やるせなさと行き場のない悲しみが、瞬を冷静でない人間にする。
瞬は涙ながらに氷河に訴えた――訴えてしまっていた。

氷河は瞬の涙に少々臆したようだったが、それもほんの一瞬のこと。
彼はすぐに瞬に怒鳴り返してきた。
「おまえが危険な目に――おまえが他人の犠牲になることはないと言っているんだっ!」
「僕は、自分が人の犠牲になってるなんて思ってない。僕は、僕がしなきゃならないと思ったことをしてるだけだよ! 自分のしたいことをしてるだけ! 僕は、あの小犬が死んじゃうのは嫌だった。あの男の子が泣くのも嫌だった。だから、僕は僕のために――」
「犬が死ぬのが嫌だった !? それで おまえの身に何かあったら、じゃあ、俺はどうなるんだっ !? 」
「……え?」
何かひどく思いがけないことを言われた――思ってもいなかったことで責められた――ような気がして、瞬は自分が言おうとしていた言葉と息とを呑み込むことになったのである。

瞬は、人が人のために行動することの是非を語っていたつもりだった。
小犬と飼い主のために、彼等に関わりのない人間が何事かを為したとしても、それが嫌いな人間のとった行動だからという理由で責められるのは悲しいし、それを責める権利は氷河にはない――と、訴えているつもりだったのだ。
本音を言えば、瞬は、自分が氷河が何を考えてそんな理不尽を押しつけてくるのかということには――氷河の考えや気持ちには――全く思いを至らせていなかったのである。

氷河の怒声――もしかしたら、それは悲鳴だったのかもしれない――の意味がわからず、瞬は虚を衝かれたような気分になってしまった。
自身の失言に気付いたらしい氷河が、きつく唇を噛みしめる。
「おまえにとって俺が犬以下の存在だということは、よくわかった」

瞬はただの一言もそんなことを口にしたつもりはなかったのに――氷河は吐き出すようにそう言って、そのまま仲間たちのいるラウンジから出ていってしまったのだった。






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