不吉な赤い月が海面を照らしている。 小さな舟が波のない水の上をどこかに向かってすべっている。 音はない。 舟人の心の内の嘆きに触れまいとするかのように、波は微かに囁くことさえやめていた。 舟には誰かが乗っている。 二人。 その向こうに、赤い花の咲いている島。 血のように赤い花だ。 何だろう、あれは。 瞬が疑いながら 視線を舟の上に戻すと、いつのまにか小舟に乗っていた二人の人間の姿は消え失せてしまっていた。 今は、操る者のない空虚な舟だけが音のない海の上に心細げに浮かんでいるばかりである。 いったい 舟はどこに行こうとしているのか――行こうとしていたのか。 そもそも その舟に目的地はあるのか――あったのか。 舟に乗っていたのは誰で、どこに消えたのか。 何もわからないことが、どうしようもなく瞬を不安にする。 その不安は、いっそ嵐でも起こって、この不可思議な光景に何らかの変化を生んでほしいという願いをすら、瞬の胸に運んできた。 だが、その願いは叶えられることはなく、瞬は不吉な赤い月の光の中で 茫漠とした不安に押し潰されそうになるだけだった。 瞬は、そこで目覚めた。 今夜も何も起こらないまま、夢は終わってしまったらしい。 瞬が、その音のない夢を見るのは これが初めてのことではなかった。 数ヶ月ほど前から、瞬は、その夢を毎晩のように見るようになっていた。 夢の中のその光景は 清冽を感じるほどに孤独に支配された光景で、その光景に触れるたび、瞬は胸が締めつけられた。 目覚めた時には必ず、瞬の頬は涙で濡れていた。 瞬は慌てて涙を拭ったのである。 その夢を最初に見たのは、初めて氷河と身体を交えた夜。 瞬は 夢の切なさに泣いていただけだったのに、氷河はひどく心配して、瞬に幾度も『後悔しているのか』と訊いてきた。 同じことを繰り返したくはない――瞬は、氷河にいらぬ心配をかけたくはなかった。 なぜ自分がそんな夢を見るようになったのか、瞬には、その理由が全くわからなかった。 知らない場所。 見慣れぬ光景。 舟に乗っている人間が自分だという実感もない。 夢の中で、瞬は、その無音の光景を遠い場所から眺めているだけなのだ。 氷河と共に眠るようになってから、繰り返し見るようになった夢。 それが自分たちの関係の変化に伴って生じた夢で、その夢を作るものは自分の無意識下にある“何か”なのかと疑ったこともある。 そんなはずはないと、瞬の意識はすぐに瞬の疑念を否定してくるのだが。 瞬は、氷河とそうなったことを後悔してるわけではなかった。 絶対になかった。 瞬は氷河が好きだったし、心から信じてもいる。 氷河の肌、氷河の体温は心地良く、覚醒して氷河に寄り添っている時、二人がそうしていることに、瞬は何の不安も感じなかった。 むしろ幸福感に満たされる。 身体を交える行為そのものも、それがどれほど心地良いものなのかも知らずに恐れ続けていた かつての自分の臆病を悔やまずにはいられないほど 素晴らしいものだった。 普段はクールを気取ろうとして無理な虚勢を張っている氷河が、燃えるような本性を剥き出しにして、恋人に挑んでくる。 生きるための欲望を満たそうとする氷河は可愛いし、愛しいし、彼がそういう姿を自分に見せてくれること、そんな彼を自分が受けとめてやれることは、瞬にとって無上の喜びだった。 自分は彼に捧げられた恋の 自分が氷河にとってのあらゆる存在であることが、瞬は嬉しくてならなかった。 そんなふうに――氷河と身体を交える行為は、瞬自身の身体と心に、激しく燃えあがるような快感をもたらすものだった。 その炎に身を焼かれる心地良さを知らなかった頃の自分に戻りたいとは、決して思わない。 絶対に後悔はしていない。 だというのに、なぜ、幸福な二人の夜に、毎夜 これほど悲しい夢が訪れるのか。 瞬は、その夢の意図がわからなかったのである。 |