「あっちの方向に 赤い花の咲く島があるんだって」
そう言って瞬が指し示した指の先には、夜のエーゲ海があった。
ミコノス島の地震の話に耐えかねた瞬が、話を逸らすために『この島には赤い花以外に見るべきものはないのか』とタクシーの運転手に訊いてしまったのが、二人の運の尽きだった。
タクシーの運転手は 張り切ってミコノス島の観光名所案内を始めてしまい、結局瞬たちがホテルに落ち着くことができたのは、すっかり日が暮れてしまってからだったのである。

沙織が彼女の聖闘士たちのために予約してくれた部屋は、さすがに良い部屋だった。
成人男性が余裕で3人は眠れそうなキングサイズベッドが2つもある主寝室と客用寝室、大理石張りのフルサイズバスルーム、典型的ヨーロピアンスタイルの内装を施したリビングルーム、ダイニングルームにはプライベートバーがついており、すべての部屋からエーゲ海を臨むことができる。
リビングルームのベランダは、問題の島がある方向に面しているという話だった。
もっとも、既に日が暮れていたので、花の他には管理人の小屋が一つあるきりだという その島は、夜のとばりに包まれて、今はその島影すら瞬たちに見せてはくれなかったが。

部屋のライティングデスクの上には、聖書とルームサービスメニューの他に 赤い花の咲く島の伝説をつづった小冊子が置かれていた。
それによって、氷河と瞬は、赤い花の咲く島の伝説を知ることができたのである。
瞬はてっきり、伝説の主人公たちは この島に暮らしていた者たちなのだろうと思い込んでいたのだが、実際はそうではなく、その物語はギリシャ本土のアテネから始まっていた。


昔、ギリシャがまだ多くの独立した都市国家群から成っていた頃、アテネの国に若い恋人同士がいた。
彼等は互いに深く愛し合い平和に暮らしていたが、アテネと ある国との間に戦が起こり、男は戦場に行かなければならなくなった。
一人きりでアテネに取り残された娘は、毎日恋人の無事を祈って時を過ごすことになったのである。
娘は彼女の知る限りすべての神に祈りを捧げたが、神々は誰も娘の祈りに答えてはくれなかった。
そして、最後に娘は 死の国の王に祈ったのである。
「私の愛しいあの人を、あなたの国に連れて行かないで」
――と。

死の国の王は――死の国の王だけが――彼女の祈りに答えてくれた。
「そなたの恋人を、決して死の国に入れないことを約束しよう。代わりに、そなたが死の国に来るならば」
心から恋人を愛していた娘は彼の命を守るために死の国の王が示した条件を飲み、生きたままで死の国へとくだっていったのである。

やがて戦が終わり、男は生きて故国に帰ってきた。
だが、アテネの町に、彼の愛する娘はいない。
人に聞いても、彼は『いつのまにか消えてしまった』という答えしか得られなかった。
彼に『きっと、寂しさのあまり海に身を投げたのだろう』と言う者さえいたのである。

男は娘の姿を求めて、海に出た。
毎日毎日、昼も夜も。
『もう諦めろ』と止める者たちを振り切って。
だが、愛する娘は見付からない――見付かるはずもない。
そうして数年。
諦め切れない心に突き動かされて、その日 海に出た男は、大きな嵐に会い、海に呑まれて死んでしまったのである。
だが、死の国の王は、娘との約束を守り、彼を死の国に迎え入れようとはしなかった。
死の国に入れない男は、自分が死んだことにも気付かない。
魂だけになっても、彼は、愛する娘を探して海の上を いつまでもさまよい続けたのである。

死の国にいた娘は、恋人の悲しい姿に耐えかねて、せめて小さな花になって彼のいるところに戻りたいと 死の国の王に願い出た。
さすがに哀れを覚えた死の国の王は、娘の願いを叶えてやることにした。
彼女を小さな島に咲く赤い花に変えてやったのである。
それが愛する娘の変化へんげした姿とも知らず、海の上をさまよう男の魂は、夜になると赤い花の咲く島にやってくる。
男の魂は、もの言わぬ花の傍らで束の間休息し、朝日が昇ると再び愛する娘を求めて 赤い花の咲く島から空に飛び立っていくのだ。

男の魂は、愛する娘を求めて、今でもエーゲ海の上をさまよい続けている。
そうして、娘は、恋人の魂が迷わぬように、今もその島で赤い花を咲かせているのだ――。


それが、死にも分かつことのできない永遠の恋の伝説だった。
「『赤い花の咲く島は大変小さな島で、安全と環境保護のため、島に上陸できる人数は1日に50人までと決められています。島に渡る際はミコノス島観光協会への予約が必要です。当ホテルフロントまで お申しつけください』だって」
最後のページに記されている案内文までを読み終えてから、瞬はその冊子のページを閉じた。
観光協会への予約は、既に沙織が手配してくれているはずだった。

「何が“死にも分かつことのできない永遠の恋”だ。自分だけ生き延びたって、それほど愛した恋人を他の男にとられたんじゃ、死んでも死に切れないじゃないか。――いや、生きても生ききれない」
昼間の予定外のタクシー観光で すっかり臍を曲げてしまっていた氷河が――なにしろ あのタクシーの運転手はいかにもラテン男らしく、やたらと瞬にだけ親切で馴れ馴れしかったのだ――不愉快そうな口調で、伝説に文句をつけ始める。
いかにもこの島のホテルらしい二人掛けのソファがあるというのに、瞬が氷河の隣りではなく、その向かいにある椅子を自分の居場所に決めてしまったことも、彼の不機嫌に拍車をかけているようだった。

「それでも 生きていてほしかったんだよ」
瞬が、そんな氷河をなだめるように穏やかな口調で告げる。
「おまえのいないところで生きて何になる」
「別の幸せを見付けられるかもしれないじゃない。その可能性は、生きている限り存在し続けるものでしょう」
「死ぬまで孤独と苦しみに苛まれ続ける可能性は考えないのか。自分の恋人に たった一人で生きていてほしいと望むことに、どんな意味があるというんだ。人はどうせ死ぬ。それがわかっているのに、それでも俺が生きたいと望むのは、おまえが生きているからだ」
氷河の主張は決して理のないものではなかったのだが――瞬の心は、恋人の生を願った伝説の娘の方に、より近かった。
氷河の生には それだけの価値があると思うし、人の生は――氷河に限らず、どんな境遇にあっても、幸福に至る可能性を有していると思う。

「でも――氷河は、お母さんが死んでもカミュが死んでも生き続けたじゃない」
「マーマは、俺を生かすために死んでいった。カミュが死んだ時には、俺はもう おまえに出会っていた。死ねるわけがない」
「僕が死んでも、氷河は別の誰かに出会えるかもしれないよ。そして、幸福になれるかもしれない。それが人間が生きるってことでしょう」
「おまえを失って絶望することも、人間だからできるんだ」

どうあっても“生きること”の価値を認めてくれない氷河に、瞬は困ってしまったのである。
同時に切なくなった。
氷河が拒んでいるのは、“生きること”ではなく“一人で生きること”なのだ。
氷河がそこまで孤独を拒むのは、彼が孤独を知っているからである。
氷河は、20年にも満たないこれまでの人生で、あまりにも多くの親しい人たちを失ってきた。

寂しがりやの恋人の隣りに移動して、瞬は、これが最後の説得というように、静かな声で彼に尋ねたのである。
「氷河。氷河はもし自分が死んだら、僕にも死んでほしいって思う?」
「……」
それまで“ああ言えば、こう言う”状態だった氷河が、ふいに黙り込む。

氷河はそんなことを望んだりしないということが、瞬にはわかっていた。
結局は氷河も、孤独と苦しみに苛まれるだけの日々を過ごすことになったとしても愛する人には生きていてほしいという願いを願う、ごくありふれた人間であり恋人なのだ。
「俺自身は、そんな人生を強要されるのは御免だ。だが、おまえには、それでも生きていてほしいと思う。俺の命なんかはどうでもいいが、おまえの生にはそれだけの価値があると思う」
そうか。伝説の中の娘も同じことを考えたのか――。
そこまでは言葉にしなかったが、氷河はそれ以上“死にも分かつことのできない永遠の恋”に文句をつけるのはやめることにしたらしい。

「僕は氷河が好きだよ。大好き」
上体の向きを変え、少し きまりが悪そうな目をしている氷河の顔を、瞬は笑いながら覗き込んだ。
氷河がそんな瞬の肩に腕をまわし、瞬の身体を抱きしめる。
瞬を抱きしめる氷河の腕はいつも通りに熱かったが、いつもほどには力が込められていない。
瞬は訝って僅かに首をかしげた。
瞬の疑念に気付いたらしい氷河が、少々苦った口調で、彼の躊躇の理由を知らせてくる。

「今、俺は死ぬほどおまえが欲しいんだ。だが、このホテルの客が皆 同じことをしているのかと思うと、どうも今いち乗り気になれないというか、ダサい気がしてならないというか――」
その ためらいが氷河らしいようで氷河らしくない。
瞬は苦笑しながら、その頬を氷河の胸に押しつけていった。

「みんなが愛し合ってるんだよ。いいことじゃない」
「その愛が伝説のように永遠かどうか」
今 永遠の恋の伝説にあやかるためにこの島に来ている恋人たちのいったいどれほどが、3年後にも恋し合っているものなのか――。
せいぜい3割がいいところだろうと、実は氷河は考えていた。
そんな連中の軽々しい恋と 自分の思いが同次元のものだとは、氷河は思いたくなかったのである。

「でも、今のこの一瞬を永遠だと思うことができるのが恋でしょう? 昔の人が言ってるよ。百の夜を一夜に、その一夜を一瞬に凝縮する情熱が恋なんだって」
それが恋の本質なのだと、瞬は思っていた。
その情熱が永遠に続くかどうかということは、大きな問題ではないのだ。

「『永遠に愛してる』なんて、軽々しい言葉だと思う?」
「……」
首肯はためらわれたが、氷河はそれを無責任な男が気障に言う安っぽい台詞だと思っていた。
言う方も言われる方も、その誓いを真実とは思わずに言い、また聞いているのだと。
もちろん氷河自身、そんな言葉を瞬に告げたことはない。
だが、今、氷河は瞬に対して、まさにそういう思いを抱いていたのだ。
自分は永遠に この切なげな瞳を持つ人間を愛しているだろう――という確信めいたものが、今 氷河の内には確かに存在していた。

「嘘じゃないんだよ。『永遠に愛してる』って、未来形じゃなく現在形でしょう? そう言った瞬間には、それが真実なんだ」
瞬はその言葉を疑ったりしないと言っている。
氷河は少し心が軽くなり、そしていつもの調子を取り戻した。
「なら、こころおきなく――」
そう言って、瞬の身体を抱きあげる。
「俺は永遠におまえを愛している」
晴れて解禁となったその言葉を 氷河が瞬の耳許に囁いたのは、もちろんベッドの上だった。






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