やがてヒョウガは『必ず帰ってくる』と言って、シュンを地上に残し、冥界に下っていった。 ハーデスがシュンの許にやってきたのは、それから数日後。 今はまだ実体を持たない死の国の王は、ついに巡り会った今生での彼の肉体に、ほとんど恋情めいた情熱をたたえて、服従を要求してきた。 その肉体を余に受け渡せ、余のものになれ――と。 「あなたはヒョウガの敵でしょう。そんなことできるわけがない」 聖闘士でもない小さな少年が、冥府の王を名乗る巨大な影に気丈に抵抗する。 「ヒョウガ……? ああ、あの聖闘士か。あの男のせいか、そなたが余を拒むのは」 冥府の王の冷たい声が、シュンの背筋を凍りつかせた。 この不吉な影は、何を司る神だったか――。 彼にはその力があるのだ。 シュンが誰よりも生きていてほしいと願っている人の命を消し去る力を、この影は有している。 「だ……駄目! ヒョウガを殺さないで!」 「そなたが大人しく余の許に来るというのなら」 「そうしたら、ヒョウガを助けてくれるの?」 「たとえあの者が望んでも死の国には入れないと約束しよう」 その言葉を言い終える前に、ハーデスは二人の間の約束事を一方的に成立させてしまっていた。 冥界でハーデスの闘士たちと闘っていたヒョウガを地上に戻すことで。 太陽のない世界から、突然陽光にあふれた場所に引き戻されたヒョウガが、眩しさに一瞬 目を閉じる。 その瞼を再び開けた時、彼の目の前にあるものを認めて、彼は驚愕に目をみはった。 「シュン……! ここは……。なぜだ。俺は冥界にいたはずだぞ」 通いなれた、聖域からシュンの家に続く石畳の小道、かなたにはアテナ神殿が霞むように見える。 そして、シュンと、シュンの周囲に漂う死の国の王の影――が、今 ヒョウガの前にあった。 「ハーデス……? なぜここに……」 アテナと人類の敵の首魁の存在を認めるや、白鳥座の聖闘士が その拳を冥府の王に向けて放とうとする。 「ヒョウガ、やめて!」 シュンは、勝てるはずのない敵――死――に拳を向けようとする恋人を、悲痛な声で押しとどめた。 「やめて、ヒョウガ。僕はヒョウガに生きていてほしいの。だから死と戦うなんてことはやめて。お願い」 その場に泣き崩れてしまったシュンの身体を、死の国の王の影が包む。 ヒョウガはそれですべてを察したようだった。 「死の国の王と取り引きをしたのか……」 「ヒョウガを死なせないでって、頼んだの。ヒョウガに生きていてほしいって、願ったの。代わりに僕が死の国に行くからって」 「なぜそんなことを! 俺に生きていてほしいだと !? おまえなしでは無理だ!」 「僕はヒョウガに、生きて、幸せになってほしいの」 それが、シュンがヒョウガに告げた最後の言葉だった。 “死”の力によって永遠に引き裂かれる悲劇の恋人たちの最後の別れなどに、ハーデスは全く関心がなかったらしい。 光あふれる世界に哀れな男をひとり残し、死の国の王は、嬉々としてシュンを その身体ごと彼の国へと連れ去ったのである。 (僕は、あの伝説の中にいるんだ――) 自分たちの時代には既に崩壊してしまった冥界にシュンと共に再び立つことになった時、瞬は、これがあの伝説の時代と世界なのだということを、やっと認識した。 |