ハーデスはシュンを死の国に連れ去った。 聖闘士でもないシュンの心は、だが、ひどく頑なで、シュンは決してハーデスの支配を受け入れようとはしなかった。 瞬は、シュンの中で、その強さにハーデス以上に圧倒されることになったのである。 アテナの聖闘士である瞬でさえ、一度は冥府の王にその身体を支配され、ほとんど同化する直前にまで至ったというのに、か弱いただの人間がハーデスの支配を拒み通すこと、その力に。 シュンをそこまで強いものにしたのは、彼が幸福を願うただ一人の人への恋情だった。 正義の実現を願う意思や、地上の人々の安寧を望む気持ちは、シュンにはない。 それでも――だからこそ? ――ハーデスはシュンの身体を我が物にすることができなかったのである。 「これほど頑なな依り代は初めてだ。尊敬に値する。そなたのその頑なさに免じて、余はアテナに封印されてやろう」 ハーデスは、死の国に入ることを禁じた白鳥座の聖闘士以外のすべての聖闘士を“死”の支配下に置くことに成功していた。 だが肝心の身体を手に入れることができないのでは、いつまで経ってもハーデスは影としてしか存在できない。 結局彼は今生での地上粛清を断念したようだった。 「だが、そなたのヒョウガは決して この死の国に入ることは叶わぬ。一人で永遠に待つがいい。二百数十年後、余の魂が再びこの冥界に降臨するまで。ただ一人で」 それはハーデスのささやかな意趣返しだったのかもしれない。 そうであってもそうでなくても――既にシュンの恋は幸福に至ることのできない恋になってしまっていた。 シュンのヒョウガは、シュンなしでは生き続けることができなかったのだ。 「僕を地上に帰して!」 だから、シュンがハーデスにそう叫んだのは、もはや幸福を求めてのことではなかっただろう。 「帰ってどうするというのだ。そなたのヒョウガは既に魂だけの存在になってしまっている。そなたたちは もはや愛し合うことはできない。そなたのヒョウガは、そなたを恨んでいるやもしれぬぞ」 「僕を――僕だとわからないものに変えて、地上に運んで。みすぼらしい鳥でも、小さな魚でもいい。海の上を漂っているヒョウガの魂を見ていられるように」 感情を失い石のようになっていたシュンの瞳が、この国に来て初めて涙に濡れる。 その涙は、長い雌伏の時を覚悟した冥府の王の心を動かすだけの力を持っていた。 「……よかろう。そうだな、花がいい。赤い――血の色をした」 ハーデスは、彼が引き裂いた恋人たちに同情したのではなかっただろう。 彼は、彼の愛しい身体――彼のものにならなかったシュンの身体を、その姿を保ったまま残しておくことに屈辱を感じていたのかもしれなかった。 ハーデスが、今生の彼に残された最後の力を シュンの上に降りそそぐ。 次の瞬間、シュンの身体は、光あふれる世界――シュンがヒョウガと出会った世界にいた。 その髪と腕は枝になり、細い身体は幹になり、脚は頼りない小さな島の大地にシュンの身体を縛りつける根となり――やがて、その身を赤い小さな花が覆い始める。 シュンは、緑青色の海にすべての人から見放されたように ぽつりと浮かぶ小さな島に根ざす、ただ一つの命になっていた。 そして、肉体を失い魂だけになったヒョウガは、恋人の姿を求め、海の上を当てもなく さまよっている――。 これが“死にも分かつことのできない永遠の恋”の伝説の真相だったというのだろうか。 シュンと共に悲しい花を咲かせながら、瞬は慟哭した。 二人の心は二度と触れ合うことはないのだ。 これでは、永遠の恋どころか、永遠に引き裂かれた恋ではないか。 ヒョウガの魂は叫んでいた。 死にたい、死にたい、シュンのいるところに行きたい――と。 生でも死でもシュンのいるところに行きたいと。 それは血を吐くような叫びだった。 だが、もちろん彼は彼のシュンに巡り会うことはできない。 瞬は、胸が潰れる思いで、その叫びを聞くことになったのである。 シュンを失ったヒョウガの魂は、時折シュンの島にもやってきた。 それがシュンの だが、ヒョウガの心に真の安らぎは訪れない。 彼の魂は永遠に、彼のいるべき場所に辿り着くことはできない。 エーゲ海の孤島に咲く赤い花と、恋人を求め さまよう哀れな魂。 それは、永遠の恋の成就どころか、生き切れず、死に切れもしない二つの命の悲しい恋の姿だった。 そうして長い時が過ぎ――数百年の時が経った。 アテナとハーデスの聖戦も幾度か繰り返されたが、二柱の神の戦いに決定的な決着がつくことはなかった。 けれど、ついに その時が訪れたのである。 アテナの聖闘士たちは、ハーデスの真実の肉体ごと、死の国の王を倒してしまった。 ハーデスによって作られた偽りの死の国は崩壊し、彼の力も消え去った。 ハーデスの力によって生まれた赤い花の咲く樹も枯れかけている。 この赤い花が消えてしまったら、ヒョウガの魂は、今度こそ、真の意味で孤独そのものになってしまうだろう。 引き離された二人ではなく、他でもない瞬自身が、そんなことには耐えらそうになかった。 |