100年、200年、500年、1000年――。
赤い花の伝説が始まった時から、どれほどの時間が経ったのか。
瞬は、再び、あの赤い花の咲く島にいた。
赤い月の光を受けて、涙でできたような花びらを震わせている あの樹の根方に。
現実のあの島ではないようだった。
氷河と共にその樹を見上げた時、樹の周囲に張り巡らされていた柵がない。

夢で見た通りの赤い月が寂しげな光をたたえて、空に浮かんでいる。
沖には、無人の小さな舟が 向かう当てもない様子で漂っている。
伝説の恋人たちは、本当はあの舟で二人、行きたいところに行き、力を合わせて二人の幸福を探すはずだったのだ。
だが、今、その舟はただの木片と同じ、希望の残骸でしかない。

これも夢なのだろうか――と、瞬は思った。
氷河と共にやってきた、すっかり観光地化しているあの島の豪華なホテルのベッドの上で、自分はまた あの夢を見ているだけなのだろうか、と。
だとしても、瞬は叫ばずにはいられなかったのである。
この悲しい夢と悲しい伝説を終わらせてしまうために。

星もなく赤い月だけが浮かんでいる寂しい空に向かって、瞬は叫んだ。
その声が、当てもなくさまようヒョウガの魂に届くことを祈りながら。
「冥界は――ハーデスの造った冥界は本当の死の国じゃない! あなたを死から拒んだ神は、もう死んだ。あなたは漂泊に縛られる必要はない。あなたはもう一人で海の上を漂っている必要はない。だから、あなたの居場所に戻って!」

『――俺の居場所はシュンのいるところだ。俺のシュンはどこにいる』
ヒョウガの声が、瞬の胸に響いてくる。
自分の声がヒョウガの魂に届いたとこに、瞬はまず安堵したのである。
彼のシュンの居場所を彼に教えてやることさえできれば、彼は少なくとも――死後の安らぎは得られなくても――もはや恋人の姿を求めてさまよい続ける必要はなくなるのだと。

「この花が、あなたのシュンなの」
『花……?』
その事実を瞬に言葉にされて心を震わせたのは、ヒョウガの魂よりも、今は人の姿をしていないシュンの方だった。
その時 初めて瞬は、シュンが自分の居場所をヒョウガに知らせずにいたのは、彼がその術を持っていなかったからではなかったことに気付いたのである。
シュンは、自分がそこにいるとヒョウガに知られることを恐れていたのだ。

『そこに――いたのか、シュン』
ヒョウガの魂が花に触れる――触れたように、瞬には感じられた。
途端に、赤い花をつけた枝が項垂れ、その幹が震える。
そして、シュンは、凍えているように小さな声で、自らの沈黙の訳をヒョウガに告白した。
『ずっと……ずっとここにいたの。ここにいてずっと ヒョウガを見てた。僕はヒョウガを裏切ったから、僕だって言えなかったの。僕はここにいるって言えなかったの。気付いてほしいなんて、望んじゃいけないんだと、自分に言い聞かせて、僕は――」

何万回、何十万回と取り返されてきた、シュンの昼と夜。
赤い花に姿を変えたシュンは、悲しくさすらうヒョウガの魂を、あえて無言で見詰め続けていたのだ。
シュンを見付けられないヒョウガの魂と、すぐそこにヒョウガがいるのに無言で見詰めていることしかできなかったシュンの心。
いったいどちらの方がつらかったのだろうと、瞬は疑った。

『でも、それももう終わり。僕は、もうすぐ消えてしまうから』
『消える? なぜだ。おまえが消えてしまったら、俺はどうなるんだ? おまえはまた俺を一人にしてしまうのか? それとも、おまえは俺と同じものになって、俺たちは今度こそ永遠に一緒にいられるようになるのか?』
ヒョウガは、シュンが懸念していたように、シュンを責めるようなことはしなかった。
シュンの為したことを責めるにはあまりにも――彼の孤独の時間は長すぎたのだろう。
今の彼の望みは、探し続け求め続けた人を二度と見失わないことだけのようだった。
赤い花が、悲しげに花びらを揺らす。

『ごめんなさい。僕には死は訪れない。ただ消えるだけなの。僕は、僕の生をちゃんと生きなかったから』
死は、与えられた生を懸命に生き抜いた者にだけ与えられる必然であり、権利である。
己れの生を生き抜いた者にだけ与えられる永遠の約束なのだ。
生きることをしなかった者は、ちゃんと死ぬこともできない。
『ヒョウガと二人で永遠の国に行きたかったけど、それはもう叶わない夢みたい。僕は自分の意思で自分の生を生きなかった。無力で……いつも流されるだけだった。だから、僕は死ぬこともできない。消えることしかできないの』
『シュン……!』

ヒョウガの無音の絶望の悲鳴が夜の海と空とに響き渡る。
それは、瞬の悲鳴でもあった。
この絶望は、アテナの聖闘士たちがハーデスを倒してしまったために生まれたものなのだろうか。
だとしたら、それは間違っていると瞬は思った。
瞬はすべてのものに、光と、そして希望を与えるために、命をかけて死の国の王と戦ったのだ。
断じて、こんな絶望を生むために戦ったのではない。

「そんなことない! ずっとヒョウガを見詰めていたのは、あなたの意思、あなたの心でしょう! それは生きるってことじゃないの !? 」
『本当に生きていたら――ヒョウガに嫌われることを恐れずに、ヒョウガに去られることを覚悟して、僕はここにいるって、ヒョウガに言っていたはず。ヒョウガが苦しんでいることを知っていたのに、ヒョウガに嫌われるのが恐くて、責められるのが恐くて、僕はそうすることができなかった。僕は臆病者なんだ』
「だったら、もう一度生き直せばいい!」
『僕にはもう時間がない。僕はもうすぐ消えてしまう。気付くのが……遅すぎたんだ』
それでなくても儚げな赤い花が、透き通った血のような涙を流す――流しているように、瞬には思えた。
その涙は、だが、瞬には受け入れ難いものだったのである。

「どうして諦めるの! ヒョウガと幸せになりたくないの! この一瞬を……この一瞬を永遠にもできるのが、人の心だよ! 今 この瞬間に、永遠より長い時間を生きればいい。この一瞬に、永遠より長い時間、ヒョウガを愛すればいいじゃない! ヒョウガを一人にするなんて、僕が許さない! ヒョウガにこれ以上悲しい思いをさせることなんて、僕が許さないんだから!」
今 魂だけの存在としてこの島にいるヒョウガは、瞬の氷河ではなかった。
それはわかっていたのだが――瞬は、それだけは耐えられなかったのである。
氷河に似た心を持った人が、氷河以上に孤独を知っている人が、今より深い孤独に耐えなければならない永遠など。

赤い花が、瞬の訴えに大きく震える。
赤いひとりぽっちの月。
星のない空。
行き場を見失ったように海の上に浮かんでいる空ろな舟。
波すらも声をひそめている その世界に、悲しい歌――生を望む歌が響き始めたのは、それからまもなくのことだった。

『僕は――生きたかった。ヒョウガと一緒に』
これまで、物言わぬ花として過ごしてきた数百年分の思いを その一言に込めて、赤い花が告げる。
『俺もだ』
これまで孤独な魂としてさまよってきた切ない心を その一言に込めて、ヒョウガの魂が答える。
今となっては、その願いだけが、悲しい恋人たちの生きている証だったのかもしれない。
そうして、二人は、その一瞬に永遠も等しい命を生きたのだろう。

赤い不吉な月が消え、空に幾億幾千億の星々が瞬き始める。
心許なげに海の上を漂っていた空ろな舟は消え、波が星々以上にさざめいて、歓喜の歌を歌い始める。
凄まじい勢いで時間が流れ始め、光より速く強い力に、瞬は呑み込まれた。
そうして瞬は、錯乱した嵐のような力に巻き込まれ、その中で やがて意識を失ってしまったのである。






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