「“エキセントリックな恋人たち”への出演は、肝心の瞬が乗り気ではなさそうだな」
紫龍の言葉を受けた氷河が、自分の隣りのシートに腰掛けている瞬に視線を転じると、そこには紫龍の指摘通りの様子をした瞬がいた。
乗り気でないどころか、瞬はひどく青ざめた頬をして、周囲の空気を重苦しく澱ませている。

「瞬?」
「可愛くて――甘え上手な女の子みたい」
怪訝に思った氷河が瞬の名を呼ぶと、瞬は小さな声でぽつりと呟いた。
仲間たちが見る価値なしと判断した映像の中の小柄な少女に、ちらりと視線を投げてから。
「氷河は、綺麗で可愛くて優しくて大人しくて――そういう子が好きだもんね」
「俺が……?」
「ちょっと泣き虫で、無邪気に氷河に甘えて、氷河を頼って、氷河にすがっていくみたいな」
「その通りだが」
氷河は一瞬もためらうことなく、瞬の言葉に頷いた。
彼は、そういう子・・・・・が好きだった。
すなわち、瞬が。

「そうだと思った」
そう 一言だけ言い置いて、瞬が暗い表情のまま、掛けていた椅子から立ち上がり、AVルームを出ていく。
アテナの召集命令を受けて その場にやってきたというのに、瞬は、そのアテナから辞去の許しを得ることもなく仲間たちの前から姿を消していった。
不必要なほど他人に気を配るのを常としている平生の瞬を思えば、それは考えられないほどの無作法である。
つまり、そんな無作法をしてしまうほど、瞬は平常心を失っていた――ということになるのだろう。
しかし、“ありふれた恋人たち”のいったい何が、瞬の心をそこまで取り乱させたのか――。

ここに来るまでは瞬は、上機嫌とはいかないまでも、沙織の見せたいものとは何なのだろうと、比較的楽しげな様子でいたのだ。
それで見せられた映像がこれ・・なのでは、瞬に楽しい気持ちでいろというのは無理な話なのかもしれない。
だが、それは瞬に何らかの衝撃をもたらすようなものでもないはずだった。
それどころか瞬は、“ありふれた恋人たち”の振舞いを微笑んで見ていられるだけの寛容性を持った唯一の青銅聖闘士と言っていい。
少なくとも氷河はそう思っていた。
だからこそ氷河は、瞬の突然の退場の理由が理解できず、その場でぽかんと呆けることになってしまったのである。

「馬鹿ね。氷河って、本当に馬鹿」
そんな氷河の様子を見た沙織が、人類と彼女の聖闘士たちに無限の慈愛を抱いている(はずの)女神にしては辛辣かつ端的な言葉で、氷河をなじる。
それから彼女は、大きく首肯した。
「よくわかったわ。世の中には氷河みたいなお馬鹿さんがたくさんいて、恋の作法や常識を学ぶためには こういうソフトが必要なんだってことが」

グラード財団総帥は、他ならぬ白鳥座の聖闘士の間抜け振りを目の当たりにすることで、彼女が求めていた答えに辿り着くことができたものらしい。
得心したように頷くと、そうして彼女は瞬よりも不機嫌そうな足取りでAVルームを出ていってしまったのである。
その答えを手に入れることができさえすれば、“氷河みたいなお馬鹿さん”の顔など見ている必要もないと言わんばかりに肩を怒らせて。

「……」
沙織が口にした言葉の意味もさることながら、瞬の態度の訳がわからない。
どう考えても、瞬は怒っていた――もしくは、機嫌を損ねていた。
だが、氷河には、瞬がそう・・なった理由に全く思い当たる節がなかったのである。

「瞬はなぜ怒っていたんだ」
氷河に問われた紫龍は、瞬の不機嫌――むしろ傷心――の理由がわかっていない氷河がわからない――というように、眉をひそめることになってしまったのである。
氷河は、自分が瞬に何を言ったのか本当にわかっていないのだろうか? ――と訝りながら。
「好きな相手から、面と向かって、他の子が好みのタイプだと言われたら、それは瞬でなくても機嫌を悪くするだろう」
「他の子とは誰のことだ」
氷河はどうやら自分が瞬に何を言ったのか、本当にわかっていないらしい。
その事実に呆れながら、紫龍はスクリーンに映っている“他の子”を右手の親指で差し示した。

「なに……?」
途端に、氷河は大々的に顔を歪めることになってしまったのである。
「なぜ俺がこんなブサ――いや、俺は、綺麗で可愛くて優しい子――というのは瞬みたいなのを言うのだと思っているんだが、俺の認識は間違っているか?」
たとえそれがスクリーンの中にいる者のことであるにしても、人となりも知らない人間を貶める言葉を吐くのは、あまり品のある行為とは言えない。
かろうじて その程度の良識はわきまえていた氷河は、口を衝いて出そうになった言葉を慌てて飲み込んだ。
飲み込んだ言葉が、しかし、すみやかに嚥下されていってくれない。
瞬の不機嫌の理由が、やはり氷河にはわからなかった。

その場に、客観的な視点と洞察力を持った仲間がいてくれたことは、氷河にとっては幸いなことだったろう。
「瞬は自分を、綺麗で可愛くて優しくて大人しくて、ちょっと泣き虫で、無邪気におまえに甘え、おまえに頼り すがっていくような人間だとは思っていないんだろうな」
氷河に比べれば はるかに物の見えている紫龍が、鈍感な仲間に瞬の傷心の訳を教える。
氷河は更にきつく眉根を寄せることになった。
「じゃあ、瞬は、自分をどういうものだと思っているんだ」

『綺麗』も『可愛い』も『優しい』も、瞬のためにある言葉であり、むしろ瞬以外の人間がそれらの言葉を用いるのは大いなる誤りだと、氷河は思っていた。
瞬がそう・・ではないというのなら、瞬の恋人はいったい他のどんな言葉を用いて瞬を形容すればいいのだろう。
氷河は、にわかには適当な言葉が思いつかなかったのである。

そんな氷河を見た紫龍が深く長い嘆息を洩らすことになったのは、氷河があまりにも自分の視点と価値観でしか物事を見ていないという事実に呆れたからだったろう。
瞬はうぬぼれの強い人間ではない。
むしろ自身を卑下する傾向が強く、しかも内罰的な人間である。
ほんの少し想像力を働かせ、瞬の気持ちになって考えてみたら、瞬が自分をどういう人間であると思っているのかくらい、容易に察することができるはずではないか。

「冷酷に敵を倒し、激情的で、可愛らしさなんてものは持ちあわせていなくて、ありふれた幸せや安らぎなんてものにも縁がなく、いつも緊張し切羽詰まっていて、どこぞの白鳥座の聖闘士なんかよりずっとクールで、そして――血にまみれている人間、かな」
「それは――」
“ありふれた恋人たち”の魅力や、それを好む大衆の心理に比べれば はるかに、命をかけた戦いを共にしてきた仲間の言葉は、氷河には理解しやすいものだった。
理解して――氷河は、紫龍の言葉に声を失ってしまったのである。

紫龍の告げる言葉は、ある視点から見れば、それもまた確かな事実だった。
瞬が冷酷に敵を倒したことは これまでただの一度もなかったが、現実に瞬はいつも最後には彼の“敵”を倒してきたのだ。
その結果を、瞬が“冷酷な振舞い”と認識していることは、大いにあり得る話だった。
だが、それこそは大きな認識違いというものである。
“冷酷に敵を倒す人間”というのは、自分の正義を信じ切って ためらいなく敵を倒す、たとえて言うなら星矢のような戦い方をする人間のことを言うのだ。
瞬は断じて冷酷な人間などではない。
瞬自身ではないからこそ、瞬とは違う視点と価値観を持っているからこそ、氷河はその判断に絶対の自信を抱いていた。






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