「氷河は――綺麗で可愛くて小さくて、氷河に甘えて 拗ねたり我儘言ってキスをねだったりするような子が好きなの……?」 氷河が瞬の中から身を引いても、瞬は氷河を解放してはくれなかった。 瞬の横に仰向けに横になった氷河に そう尋ねてくる瞬の息は、まだ完全には平生のレベルにまで治まりきっていない。 にもかかわらず、瞬は、呼吸が整うのを待つ時間も惜しいと言わんばかりに、氷河を見詰め尋ねてくる。 瞬はもう その腕を氷河に絡めようとはしなかった。 代わりに、すがるように切なげな目を、氷河の心に絡ませてくる。 どう見ても、瞬は、自分が 綺麗で可愛くて細くて、キスはねだらないにしても、セックスはねだってくる瞬。 そんな瞬に対して何と答えたものかと迷いながら、氷河は、もうしばらく瞬との交合の余韻に浸っていたいと訴えてくる自身の身体をなだめすかして、無理にベッドの上に上体を起こした。 「瞬、おまえは、自分が凶悪に可愛いことを、ちゃんと自覚した方が――」 瞬の少し乱れた髪を整えながら、氷河は意識して優しく穏やかな表情を作り、無意味な不安と不必要な臆病に囚われているらしい恋人を 諭してやろうとしたのである。 現実に瞬は“可愛い”のだし、服を着けている時よりは、その説得は容易で楽しい作業になるだろうと、氷河はたかをくくっていた。 ――のだが。 「敵襲だーっ !! 」 某辰巳徳丸氏の胴間声が、氷河の楽しい(はずの)仕事の邪魔をする。 恋人同士の切ない夜にあまりにもふさわしくないその声のせいで、氷河は、あやうく瞬の胸に顔から突っ伏してしまうところだった。 「嘘だろう……!」 それが嘘ではないことはわかっているのに、そう呻かずにはいられない。 何にしても、まったくロマンティックでない辰巳徳丸氏のがなり声が、ちょうど二人の行為に一段落がついたタイミングで響いてきたことは不幸中の幸いだった。 「瞬、おまえはここにいろ!」 ベッドの上に起き上がろうとする瞬の肩を押し戻して、その身体を毛布で覆う。 自身はベッドから飛び出し、ベッドの足許に放り投げていた服を掴みあげると、氷河はバスルームに飛び込んだ。 (小宇宙……小宇宙は感じられない。数は多いな。えーい、なんでこんな時に!) 訪問先の事情と都合も考慮せずに夜襲を仕掛けてくる敵への苛立ちを抑えることができないまま、氷河は自室のベランダから庭に飛び下りた。 敵の居場所を捉えるために、城戸邸の警備員が幾つものサーチライトをせわしなく動かしているせいで、かえって敵の数の把握がしにくい。 先に来ていた星矢たちは、さすがに戦い慣れているというべきか、それらの光に頼らずに勘で敵を捉えているようだった。 「遅いぞ! まさかシャワー浴びてから出てきたとか言うんじゃないだろーな!」 そう言う星矢は聖衣ではなくパジャマ姿である。 紫龍も――これはいつもの通り、上半身が裸という出で立ちだった。 いつもなら、その露出趣味としか言いようのない姿に眉をひそめるところなのだが、今夜ばかりは氷河にもそうすることができなかった。 実は氷河も同じ格好をしていたのだ。 「バスルームに寄ってから来た。身支度に手間取った」 身支度を整えてきたというにしては上衣を着けていない氷河を訝りながら、星矢が背後から飛びかかってきた敵の鳩尾に右肘をのめり込ませる。 「バスルームだあー !? 」 悠長にバスルームで身支度を整えてきたという白鳥座の聖闘士に向かって、星矢は非難めいた声を投げつけてきたのだが、氷河はその非難を不当だと思った。 なにしろ、氷河には氷河の都合というものがあったのだ。 「瞬の目の前でパンツなんか穿けるか! 男の行動のうちで、あれくらい情けない格好はない」 「この緊急時に、悠長にパンツなんかにこだわってんなよ! いつもはフリチン見せてんだろ!」 「これは男の美学の問題なんだ。文句を言うな!」 今夜の団体客は、そんな軽口を叩きながら相手をしていられる程度の戦闘力しか持っていない客たちだった。 聖衣を身につけていなくても戦えるレベルの敵。とはいえ、数が異様に多い。 むしろ、軽口を叩きながら相手のできる敵、聖衣を身につけていなくても戦えるレベルの敵だからこそ、彼等に致命傷を与えるわけにはいかない青銅聖闘士たちは苦戦を強いられることになった。 聖衣を脱いでいる時の方が聖衣をつけている時よりも強い紫龍などは、力を抑えることの方に力の9割をまわす羽目に陥っている。 「いっそ全員を邸内に誘い込んだところで天井を崩して生き埋めにしてやろうか」 「沙織さんに家屋修繕費を請求されてもいいのならな!」 「いったいどこの誰の手先なんだ! いくら何でも弱すぎるぞ!」 大量の小蝿の駆除ほど難しいものはない。 30人学級4クラスの小学一年生の相手を務めるのは、アテナの聖闘士たちには超の字がつくほどの難事業だった。 そのアテナの聖闘士たちの苦境を救ったのは、1本の鎖。 言わずと知れた某アンドロメダ座の聖闘士の防御用のチェーンだった。 ほどよく力の抑えられたネビュラチェーンが、一気に10匹ほどの小蝿を叩き落す。 「瞬! 来るなと言っただろう!」 渋面を作った氷河に、瞬が極めて落ち着いた声で、 「僕が片付けるよ」 と軽く宣言する。 「自分だけ聖衣つけて、ずるいぞ!」 星矢の舌打ちにも、瞬はクールな表情を崩さなかった。 「大した力もなさそうだし、命を奪うわけにはいかないじゃない」 瞬は実に冷酷に――もとい、冷静かつ客観的かつ正確に――敵の力を見切っていた。 つまり、瞬は、生身の拳を使って敵にとどめを刺すようなことをしないために、優雅に聖衣を身につけてから庭におりてきた――らしい。 そして、聖衣をつけている瞬はさすがに強かった。 力を適切かつ完璧に抑制して、雲霞のように群がる敵に致命傷を与えることなく、次々に意識だけを奪っていく。 それまで狂った磁石に踊らされているように庭を走りまわっているだけだったサーチライトが、一斉に瞬だけを追い始める。 追いたくなる警備員たちの気持ちは、氷河にもよくわかった。 瞬の戦い方は、それほど鮮やかで際立っていたのだ。 「なーんか、俺たち、立場ないんだけど」 ライトの外で、足と手を止めた星矢がぼやく。 紫龍も、既に拳を構えるのをやめていた。 「瞬の小宇宙は いつもより攻撃的だな。抑えるのに苦労しているようだ。何かに腹を立てているぞ、あれは」 それが真夜中の珍客であっても――瞬が他人に対して腹を立てるということは滅多にないことであるから、瞬が腹を立てているのは、おそらく自分に対して、である。 最後に残っていた5人の敵を一瞬で倒し、城戸邸の庭に立っているのがアテナの聖闘士たちだけになった時、瞬の怒りは最高点に達したようだった。 10基ほどのサーチライトが、戦い終えた瞬の姿を光の中に浮かびあがらせる。 今夜の敵は、瞬に指一本触れることができなかっただろう。 瞬はもちろん負傷はしていなかったが、戦いの最中に小石がはぜたのか、頬に小さな傷ができ、少しだけ血がにじんでいた。 その瞬が、星矢たち同様、瞬に敵を奪われて手持ち無沙汰にしている氷河の側に ゆっくりと歩み寄る。 彼に正面から対峙すると、瞬は挑戦的な目をして、氷河に、 「キスして」 と言った。 怪我はないが、瞬は大きくゆっくりと肩で息をしている。 敵は数だけは多かったが、今夜の敵は瞬に息を切らせるほどの者たちではなかった。 何か別の理由が、瞬を緊張させ疲れさせているのだろう。 敵をすべて倒し、敵のいなくなった戦場に しかし、人目のあるところで そんなものを求める行為は、全く瞬らしくない行為である。 そんな瞬を訝り、氷河が眉をひそめると、瞬はこころもち顎を上向けて挑むような視線を氷河に投じてきた。 「僕たちがしているのは、そういう恋だよ。可愛い恋でもなければ、綺麗な恋でもない。優しくもなければ、幸せが約束されているわけでもない。氷河はそんなのはいや?」 瞬が美しいのは、彼が残酷なほど強く、また、今以上に強くなろうという意思があるから。 それでいながら、瞬の瞳がいつも涙で潤んでいるからである。 それが氷河の好きになった瞬――アンドロメダ座の聖闘士だった。 「望むところだ」 瞬の腰を乱暴なほど強く引き寄せて、真昼の陽光より強い光の中で、氷河はほとんど奪うように瞬の唇を自身の唇で覆った。 途端に、瞬の肩から力が抜け、その身体が氷河の胸に崩れ落ちるように もたれかかってくる。 瞬の瞳から零れ落ちた涙が、氷河の胸を濡らした。 「ごめんね。可愛くて優しい女の子じゃなくて……。氷河にすがって甘えていけるような――氷河が支えてあげたくなるような子じゃなくて――」 一度零れ落ちると、瞬の涙はもはや止めようがなかった。 「瞬……」 「でも、僕は氷河といたいの」 自分の胸の中で細い肩を頼りなく震わせて泣き濡れる瞬に、いったい何と言えばいいのか、氷河は心底から懊悩することになってしまったのである。 アンドロメダ座の聖闘士が白鳥座の聖闘士の好むような可愛らしく優しく頼りない少女ではないこと、そのためにアンドロメダ座の聖闘士が白鳥座の聖闘士と共にいられなくなること、その可能性と不安。 それが瞬をいつもの瞬でなくした理由だったというのなら、それこそ杞憂――空が崩れ落ちてくることよりも あり得ない事態である。 そんなふうな、たとえ空が崩れ落ちてきたとしても起こり得ない事態を恐れて切なげに涙を流し続ける瞬。 恋人に すがり甘えてくる瞬を支え抱きしめながら、氷河は激しい目眩いに襲われていた。 |