昨夜の小蝿たちの残骸は、沙織が夜のうちに片付けてしまったらしい。
翌朝目覚めた氷河が、その手で自らの髪をかき乱しながら庭に視線を投じると、そこには昨日の朝と何も変わらない、手入れの行き届いた城戸邸の庭があるだけだった。
その片隅で、青紫色の桔梗の花が、今朝は静かな秋の朝だということを つつましく主張している。
氷河がラウンジにおりていくと、そこにいる仲間たちの顔も、昨日までのそれと何ひとつ変わっていなかった。

「あれ、瞬は?」
「まだ眠っている。あれ以上瞬に可愛い真似をされるのには、俺の神経が耐えられそうになかったんでな。夕べはあれから、瞬が目を開けるのもつらくなるくらい可愛がってやった」
「バトルのすぐあとだっていうのに、ご苦労なこった」

星矢のねぎらいの言葉を受け流し、氷河はどっかとラウンジのソファに腰をおろした。
そして、本題に入った。
つまり、
「瞬は、絶対、『可愛い』の意味がわかっていない!」
という超難題に いかに対処すべきかという討議に。

「おまけに瞬は、俺が瞬の何に惚れたのかもわかっていない! 俺は、小さくて可愛くて、俺に甘えてすがってくるような子を好きになったんじゃないぞ!」
「違うのか」
意外そうな目をして紫龍が問い返してきたが、氷河は彼の誤解について異議を唱えるようなことはしなかった。
瞬が可愛くて、恋人に甘え すがってくるような子であることは紛う方なき事実なのであるから、彼の誤解も致し方ないものである――という考えが、氷河の中にはあったのだ。
だが、それが誤解であることもまた、厳然たる事実だった。

「俺が瞬を好きになったのは、あらゆる意味で瞬が強かったからだ。瞬があんなに――たちが悪いほど可愛い子だったなんてことには、すっかり瞬に惚れてしまったあとになって気付いて、大慌てしたくらいだ。瞬が無自覚にあんなに可愛いのなら、瞬は悪魔だ……!」
“可愛い”恋人を悪魔呼ばわりすることは、あまり一般的な行為ではないだろうが、なにしろ当の瞬があまりにも一般的でなさすぎるせいで、氷河の意見と悲嘆は、彼の仲間たちに賛同と同感をもって受け入れられた。

「おまえの瞬が悪魔なのは確実だろうな。それも、かなり高位有力な悪魔だ」
「どうすれば氷河の気を引けるのか、恐いくらい完璧に心得てるもんなー。自覚してないところが、かえって そら恐ろしいというか、何というか――」
悪魔に魅入られ、魅入ってしまった氷河が、仲間たちの言葉を受けて苦しげな呻き声を洩らす。
この至福の地獄の苑から逃げ出すことは もはや不可能だということがわかっているだけに、氷河の苦悩は深いものだったのだ。

「まあ、ちょうどいいマニュアルを見たばっかなんだしさ。あのありふれた二人を見習ってみたらどうだ? 瞬をデートに連れ出してさ、お手々つないで街を歩いて、恥知らずにも人前でキスをする。あのDVDの彼女と同じことをすれば、瞬もちょっとは自信と自覚を持ってくれるようになるんじゃねーの?」
氷河が星矢の勧めに従ってみることにしたのは、他にすがれるものがなかったからだった。
つまり星矢の提案は、氷河に差し出された1本の藁だったのである。
そして、所詮、藁は藁でしかなかった。






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