所詮 藁は藁でしかないことを氷河が思い知るのに、さほど長い時間は必要ではなかった。 氷河の目指すところは“ありふれた恋人たち”だったというのに、ありふれた恋人たちを見習って街に出た氷河と瞬は、『二人がただそこにいる』というだけで、ありふれてはいられなかったのである。 そもそも二人は、その身にまとっている空気が常人とは違っていた。 日本国のどこにでもあるような街を行く ごく一般的な通行人たちは、氷河と瞬に出会った その瞬間に、誰もがはっとしたように顔をあげ、全くありふれていない二人連れに目を留め、中には無関心を装いきれずに その場で立ち止まってしまう者さえいたのだ。 「な……なんだか、僕、場違いな気がする」 『普通のデートというものをしてみよう』という氷河の誘いに瞳を輝かせて城戸邸を出たはずの瞬は、人々の注視を浴びて、すっかり萎縮してしまっていた。 「やだ、氷河といるせいで、みんながこっち見る」 びくびくしながら氷河の陰に隠れる瞬に視線を注ぐ男たち――瞬が寄り添う男がどう見てもオトウサンやオニイサンでないことを認めた脇役属性の男たちが、あからさまに忌々しげに舌打ちをする。 そんな男たちを認める そのたびに、氷河もまた内心で幾度も舌打ちを繰り返すことになった。 「男共が見ているのは、俺じゃなく、おまえだ」 なにしろ“可愛いらしさ”という点では、瞬はその姿でも仕草でも 他の追随を許さない人間なのだ。 「どうだ、このへんで、俺にキスでもせがんでみるのは」 だから、氷河がそんなことを言い出したのは、決して例の“ありふれた恋人たち”の真似をしようと考えたからではなく、瞬に不躾な視線を投げてくる脇役の男たちに、『これは俺のものだ』と主張したい衝動にかられたからだった。 瞬の答えは、 「そんな恥ずかしいことできません!」 という、実につれないものだったが。 「普通の恋人たちはそれをするらしいぞ」 「こんな人目のあるところで……。聖闘士なんかより普通の人たちの方がずっと大胆で度胸があるんだね」 氷河の腕にすがっていた瞬が 更に身体を縮こまらせながら、尻込みする。 その仕草は、昨夜 雑魚とはいえ100人を超える男たちをほんの数分で薙ぎ倒してしまった人間のそれとは 到底思えなかった。 「度胸ときたか。小心なおまえにはやはり無理か」 「氷河はそういうことのできる子の方がいいの……?」 氷河の溜め息に怯え不安にかられたように、瞬がすがるような眼差しを氷河に向けてくる。 これが凶悪に可愛い――悪魔のように、瞬は可愛らしいのだ。 氷河は瞬の不安を取り除くために急いで微笑を作り、そして、瞬の肩を抱き寄せることをしたのである。 「俺は、戦場で大胆にキスを迫ってきてくれる子の方がいい」 それは、瞬の心を落ち着かせるための軽い冗談のつもりだったのだが、そんな軽い冗談も、今の瞬には切なく苦しいだけのものだったらしい。 瞬がまた、その瞳を潤ませ始める。 「ごめんね、氷河……。でも、僕は、氷河とずっと一緒にいたいの。ごめんね」 そう告げて氷河の腕にしがみついてくる瞬の可愛らしさ健気さは、もはや悪魔も太刀打ちできないほどに凄まじいものだった。 氷河は昨夜同様もう一度、立っているのが困難なほど激しい目眩いに見舞われてしまったのである。 これが“可愛く”ないというのなら、他の何が他の誰が可愛いというのか。 氷河は全知全能の神の許に行き、その答えを無理にでも聞き出したい気分だった。 いずれにしても、事ここに至って氷河は、瞬に自分が小さくて可愛らしく優しく、異様に庇護欲を駆り立てる存在なのだという事実を自覚させることを断念したのである。 それは瞬本人が知らなくても、瞬の恋人が知っていればいいこと。 瞬の恋人が苦しめばいいだけのことなのだ。 瞬は、ずっとその恋人の側にいたいと言ってくれている。 激しい目眩いと頭痛に襲われつつも、瞬の無自覚の可愛らしさに魅入られた瞬の恋人は、自分は瞬から離れられないと痛切に感じる。 離れられないのは離れたくないからで、結局のところ、瞬の恋人は瞬の可愛らしさに苦しむことのできる幸運と幸福を手放したくないと思っているのだ。 それは、生きるという苦しみの代償に幸福を求める、ありふれた人間の営みそのもの。 そう思えば、この稀有な恋に耐える力が人間に備わっていないはずがない。 まして自分はアテナの聖闘士ではないか。 氷河は覚悟を決めて、小さくて可愛らしく優しい彼の恋人の肩を抱きしめた。 それだけのことで、瞬は幸福そうに微笑んでくれるのだ。 瞬といつまでも離れずにいられること――今の氷河には、他に望むことは何ひとつなかった。 Fin.
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