「だーれだ」 ふいに背後から目隠しをされてもすぐにわかる。 城戸邸でそんなことをするのは瞬だけだった。 この城戸邸にいる他のガキ共は、こんな他愛のないゲームに興じたりしない。 挨拶の代わりというのなら、頭を殴りつけたり、腹に拳を打ち込もうとしたり、もっと乱暴だ。 隙があったり、受け身の態勢ができていなかったりすると、その手の挨拶を受けとめ損ねて、その場にひっくりかえる羽目に陥る。 そして、しばらくの間は、その無様さを皆に嘲笑され続けるというわけだ。 瞬だけだ。 仲間に そんな まして、女の子のように やわらかい手と、いつも兄に庇われているせいか緊張感に欠けて甘さを含んだ瞬の声は、他の誰かのものと間違えようもない。 城戸邸の庭の芝生に腰をおろして ぼんやりと、俺は花壇の隅に咲くリンドウの花を眺めていたところだった。 あの頃の俺には、花というものは何でも――それがどんなものでも、花だというだけで――亡くなった美しい人を思い起こさせるものだった。 だからといって、そう大したことを考えていたわけじゃない。 むしろ、そういう時、俺は自分の中から思考だの理性だのというものを追い払ってしまっていたと思う。 大したことを考えていたわけじゃなかったんだが、俺は俺の瞑想の(?)時間を邪魔をされたことに不快を覚えて、瞬に視界をふさがれても無反応でいた。 問われたことに答えないでいると、瞬は、沈黙を守り続ける俺に、 「わからないの?」 と、本気でがっかりしたように尋ねてくる。 瞬は、俺が本当にわからないでいると思っているんだろうか。 その小さな手が鬱陶しかった俺は、仕方なく、 「瞬」 と短く答えてやった。 「うん、僕」 途端に、何が嬉しいのか、やたらと弾んだ声でそう言って、瞬はやっと俺の目を自由にしてくれた。 瞬は、別に俺に用があって、俺に近付いてくるわけじゃないんだ。 瞬にとって、それは、純粋な遊びであるらしい。 そんな遊びの何が楽しいのか俺には全くわからないんだが。 しかし、瞬はそれを なかなか気の利いた遊戯と思っているらしく、俺が一人でぼんやりしている時にはいつも、俺にその遊びを仕掛けてきた。 考えてみれば、瞬ごときに こんなに簡単に後ろをとられるなんて、俺に隙がある証拠だ。 緊張感が足りないんだ。 何度か 瞬に視界を奪われることを繰り返して、そういう結論に至った俺は、やがて自分の背後に気をつけるようになった。 しかし、瞬は、俺が背後に気を配り緊張している時には、決して俺にじゃれついてこない。 人の迷惑を顧みずに そんな遊びを仕掛けてくるくせに、瞬はそういう空気は読めるらしい。 俺が油断して気を抜いている時に限って――大抵は、マーマのことを考えている時だ――瞬は俺に『だーれだ』をかましてくるんだ。 『瞬』とすぐに答えてやれば、それだけで瞬は喜んでくれるのに、それも面倒で――その迷惑千万な戯れをやめさせるために、俺はある日、瞬への逆襲を試みた。 体育館でサーキット・トレーニングにいそしんでいる仲間たちをぽつんと眺めている瞬に、後ろからそっと近付いて、俺は瞬の目をふさいでやったんだ。 瞬より上背のある俺は、瞬がするように可愛らしく両手で瞬の目を覆ったりはしなかった。 俺はラリアットを仕掛けるように無言で右腕をまわし、その腕で瞬の視界をふさいでやった。 なにしろ、周りに星矢たちがいたからな。 瞬がするように可愛らしい目隠しごっこをするなんて軟弱な真似は、俺には絶対できなかった。 この俺がそんな真似をしたら、どんな些細なことでも からかいの種にして囃したてるのを趣味にしている奴等に、それこそ軟弱の、女々しいのと、言いたいことを言われる羽目になるに決まっている。 「やだっ、やめてっ!」 確かに俺は瞬みたいに可愛らしく優しい目隠しをしたわけじゃなかった。 だが、それにしても瞬の反応は――。 ほとんど叫ぶように激した口調で そう言って、瞬は俺の腕を両手で掴み、自分から引きはがそうとした。 本気で切羽詰まった様子で、俺の腕の中で、瞬がもがく。 俺の不意打ちに驚いたにしても、この抵抗は大袈裟すぎるだろう。 驚いたのは、瞬より俺の方だった。 あんまり驚いたせいで、俺は瞬の目の前にまわした腕を外すことさえ思いつかないでいた。 「氷河、やめてっ!」 それが俺だとわかってはいるらしい。 なのに、この激しい拒絶。 俺に驚くなと言う方が無理だ。 瞬は、俺が瞬に危害を加えるとでも思っているんだろうか。 瞬がそう思ったかどうかの真偽は ともかく、瞬の兄はそう思ったらしい。 俺が瞬に危害を加えようとしているんだと。 「氷河、貴様、瞬に何をするっ!」 奴は、可愛い弟に暴力を働いている不届き者を撃退するために、トレーニングコースを外れて、俺たちのいる方に脱兎の勢いで駆け出した。 兄の怒声に慌てた瞬が、何度も首を横に振る。 「違うの! 兄さん、違うの!」 瞬にそう言われて一輝が足を止めたのは、どんな些細なことでも からかいの種にして囃したてるのを趣味にしている奴等に、ブラコンの、過保護のと言いたいことを言われる事態を避けるためだったろう。 一度からかいの種を与えてしまったら、奴等は1、2週間はそのネタで仲間を囃したて続けるんだ。 最愛の弟のためなら たとえ火の中水の中の一輝でも、できればそんな事態は回避したかったに違いない。 おかげで俺は一輝と取っ組み合いの喧嘩をせずに済み、瞬の眼前に回していた腕を外すことに思い至ることができた。 兄が元のコースに戻ったことを確かめてから、瞬がゆっくりと後ろを振り返り、あっけにとられている俺の顔を見て、気まずそうに顔を伏せる。 そうして瞬は、蚊が鳴くように小さな声で俺に言った。 「どうしてこんなことするの……」 今にも泣き出しそうな声で俺を責めてくる瞬に、俺はついカチンときてしまったんだ。 どうしてこんなことをするのか――。 それは瞬が俺に問うべきことだろうか。 「おまえは、自分がいつもすることを、他人にされるのは嫌なのか」 瞬が俺に問う前に、俺が瞬に発すべき質問のはずだ。 それは瞬もわかっていたらしい。 俺に咎められると、瞬はすぐに、 「ご……ごめんなさい。もうしません」 と俺に謝ってきた。 「え……?」 瞬にそう言わせることが目的だったはずなのに――そのために この暴挙(?)に及んだはずだったのに、実際に瞬にそう言われてしまうと、俺はなぜかひどく慌てることになった。 慌てた俺は、自分でも思いがけないことを瞬に告げていた。 少々 言い訳がましい口調で。 「お……俺は嫌じゃないから、いいんだ。俺はただ、おまえもてっきり……」 そういうじゃれ合いが好きなのだとばかり思っていたんだ、俺は。 何の益もない行為を幾度も繰り返され、それで迷惑を被ることになったら、誰だってそう思うだろう。 瞬は 無意味に人に絡みたがる他愛のないガキで、そういう無邪気な遊びが好きなんだと。 俺は、どうやら、実は瞬にそうされることを心底から嫌がっていたわけじゃなかったらしい。 俺はただ、そんな遊びに付き合っていられるほど自分はガキじゃないということを瞬に主張したかっただけ。それだけのことだったらしい。 自分の本心に気付いて、俺は、そんな俺自身に困惑することになったんだが、顔を伏せたままの瞬が俺に告げた言葉は、もっと思いがけないものだった。 「それは……だって、氷河が寂しそうにしてたから……」 そう、瞬は言ったんだ。 「なに?」 「氷河がつらそうにしてたから……。僕たちや氷河の周りのものを見ていることがつらいみたいに――見たくないみたいに遠くを見てるから――だから、見えなくなったら、氷河は つらくなくなるかと思ったの」 そう。瞬が俺にあの無邪気な遊びを仕掛けてくるのは、俺が油断している時――気を抜いている時だった。 俺がマーマのことを思い出している時だけだった。 ガキの遊びに興じているだけなのだと(俺が勝手に)思っていた瞬は――実は、遊んでなんかいなかったんだ。 瞬は“寂しそうで、つらそうな”俺を、懸命に励まし慰めようとしてくれていたんだ。 瞬を女々しくて惰弱なガキだと決めつけていた俺は、瞬のその言葉に胸を衝かれて――反射的に瞬に頭を下げて謝ってしまいそうになった。 俺にそうさせることを阻んだのは、どんな些細なことでも からかいの種にして囃したてるのを趣味にしている奴等の存在。 今にして思えば無意味な意地を張って、俺は、 「おまえは、こんなヨノナカを見ているのは平気なのか」 と、すかしたことを瞬に問うた。 あの時 俺は、亡くなった母の思い出に浸っている女々しい奴だと、瞬に思われたくなかったんだ、多分。 身体もできていない子供に馬鹿げた特訓を強いてくる大人共。 大人の都合に振り回され、逆らうことのできない無力な俺たち。 実際、俺たちのいる世界は、見たくないもの、認めたくない事実だけでできていた。 瞬が、小さく首を横に振る。 「僕は、見えない方が不安なの……。僕が目を閉じているうちに、氷河や兄さんたちが消えてしまったら――って思うと、不安で……」 瞬は、その瞼と顔を伏せたまま――俺の虚勢に気付かぬままで、 「時々、眠るのも恐くなる。起きたら、僕は一人ぽっちになってるんじゃないかって」 そう言って、ぽろぽろと素直で綺麗な涙を零し始めた。 いつも兄に守られて、つらいことに正面から対峙せず、その上、人の迷惑を顧みずに不意打ちのように俺に触れてくる瞬。 俺は、瞬をそういう奴なんだと思って、少しばかり――いや、かなり――馬鹿にしていた――軽んじていた。 誰かに目隠しをされる行為自体が嫌なんじゃなく、対等な人間と認められない奴のすることだから、俺は 瞬の『だーれだ』が迷惑で不愉快だったんだ。 瞬がなぜそんなことをするのか、瞬はなぜ俺の不意を衝くことができるのか、ちょっと考えてみれば、何か特別な事情があるんだってことくらい、すぐにわかりそうなものだったのに。 瞬がそんな戯れを仕掛けていく相手は俺ひとりだけだったんだから。 瞬は多分、少々協調性に欠ける仲間の様子をいつも気にかけていて、そして、俺の心を気遣ってくれていたんだろう。 こんなに素直で可愛い瞬の優しさを、その心を、なぜ自分は迷惑に感じたりしていたのかと、俺はそれまでの自分自身をひどく後悔した。 その夜、俺がしたことは――まあ、あの頃はまだ 俺も素直で可愛いガキだったからできたことだったのかもしれない。 消灯時間になって部屋の灯かりが消されると、俺は俺の隣りにあった瞬のベッドに潜り込んでいった。 そして、突然 夜這いを仕掛けてきた仲間にびっくりしている瞬の手を握りしめた。 「これなら、目をつぶってても、何も見えなくなっても、安心できるだろう? おまえは一人になんかならない」 「氷河……」 灯かりの消えた部屋。 兄や仲間の姿が見えないことが恐いと言っていた瞬は、瞬ひとりだけのものでなくなったベッドの中で、多分嬉しそうに微笑んだ。――と思う。 一つのベッドに二人で寝ることになっても、俺たちはまだ痩せっぽちの子供だったから、特に不便もなかった。 狭いベッドとはいえ、俺たちは子供用のベッドなんて気の利いたものをあてがわれていたわけでもなかったからな。 あの頃の俺はまだ健全なガキで、瞬に邪まな欲望も感じていなかったし、瞬は温かくてやわらかくて――俺は、そんな瞬に優しくしてやれる自分が嬉しかった。 それぞれの修行地に送られるために離れ離れになるまで、俺と瞬は毎晩 互いの体温を与え合いながら、二人で眠っていた。 |