翌朝、氷河がダイニングルームに姿を現わしたのは、先に朝食を済ませた星矢と紫龍が食後のコーヒーにとりかかった頃だった。
氷河の傍らに瞬の姿がないことを訝った星矢は、
「あれ? 瞬は?」
と何の気なしに尋ねてから、よりにもよって この時刻、氷河に対してそんなことを尋ねた自分の軽率を心底から後悔した。

「立てないそうだ」
氷河が、白々しいほど いつも通りの顔をして、瞬がここにいない理由を短く報告してくる。
「おまえ、また……!」
文句を言おうとしてテーブルの上に両手をついた星矢の腕を、隣りの席にいた紫龍が押さえてくる。
その制止の意味に気付き、星矢はかろうじて、朝から食卓の上に怒声を響かせることを思いとどまることができたのだった。

『氷河の助平は平和の証拠。氷河の助平は平和の証拠』
呪文のように その言葉を繰り返してから、浮かしかけていた腰を椅子の上に戻す。
それから星矢は、精一杯 “大人”の振りをして、
「食い物、持ってってやれよ」
と、氷河に助言(!)してやったのだった。

「ああ」
助平男を怒鳴りつけたいのを星矢が懸命に我慢してくれているがわかるから、その努力と寛容に報いるために、氷河もまた懸命に、込みあげてくる笑いを噛み殺すべく努めたのである。
「瞬は生きているから、泣いたり、笑ったり、立てなくなったりする。瞬は生きている。わかっている」
「氷河……」
懸命に作った氷河の真顔を見て、星矢は虚を突かれたような表情になり、それから彼は、世にも稀なる助平男に心配顔を向けてきた。

星矢が短気なだけの子供ではないことを、氷河は知っていた。
星矢が白鳥座の聖闘士の非常識に激昂するのも、アンドロメダ座の聖闘士の気弱を懸念するのも、結局のところは仲間を思う心から出たことなのだ。
「瞬が何を言ったかは知らないが――いや、おおよそのところは聞いたんだが……。おまえが心配すべきは俺の狂気ではなく瞬の狂気の方だと、俺は思うぞ、星矢」
「なに?」
「本当の狂気に囚われているのは、俺より瞬の方だからな」
「氷河、おまえ、なに言ってんだよ?」

それでは、この常軌を逸した助平男より、瞬の方が“おかしい”ことになってしまう。
それは、星矢には、にわかには認め難い事実だったし、考える時間を長く与えられても、認めることの困難な事実だった。
だが、氷河は、自分の考えに揺るぎのない自信を抱いているらしい。
そういう口調で、彼は、白鳥座の聖闘士の奇天烈な意見にあっけにとられている星矢に告げた。
「瞬が、地上の平和のために あまりにも簡単に自分の命を投げ出そうとすること――それこそが、俺たちが真に憂うべき最大の狂気だとは思わないか」

「瞬が簡単に自分の命を投げ出そうとすること……」
氷河が告げた言葉をなぞるように呟いてみて初めて、星矢は、氷河の言う『狂気』の意味を理解した――理解できたような気になった。
確かにそれは、狂気なのかもしれない。
あまりに美しい、まかり間違えば多くの人間の賞讃さえ受けかねない、危険な狂気。
もし瞬と同じ立場に立たされたなら、自分はどこまでもハーデスに抗し戦う道を選んだだろうと確信できるからこそ、星矢には、氷河の語る瞬の狂気の深刻さがわかるような気がしたのである。

「俺は瞬には生きていてほしいんだ。瞬が死ねば、一人の男が確実に死ぬということを知っていれば、どんな時にでも、どんな立場に置かれても、瞬は必死に生き延びようとしてくれるかもしれないだろう? 俺が瞬に依存めいた執着を示している限り、瞬は俺のために死なない――あの狂気に身を委ねることはない。俺がこんな男でいる限り、瞬はもう狂気に囚われない。おまえらには迷惑だろうが、だから俺は自分の非常識を改めるつもりはない」
「氷河……」
「一輝もあの時――冥界のジュデッカで、瞬の中にある狂気に気付いたんだろう。そして、一輝が願っているのも、瞬の生、生を望む瞬だった。一輝が瞬を殺さなかったのは、弟の狂気を断じて認めることはできないと思ったからだ。自分の弟は、生にこそ価値を置いていると信じていたかったからだ。――多分、な」
「……」

ただアテナの命を守り、地上の平和と安寧のためにだけ戦っていればよかった者たちに比べ、ハーデスの依り代にされた者を愛する男たちは、あの戦いの最中に、いったいどれほどの試練と苦悩を味わい耐えていたのか――。
今になってその事実に思いを至らせ、星矢は声を失うことになったのである。
「アテナの聖闘士としての自覚も何もない、思い切り私情だな。俺と一輝は極めつきの私情で動いている。となると、この先も、地上の平和と安寧を守るために まともに動けるのはおまえらしかいないという事態が生じないとは言い切れないわけで――。悪いな、おまえらにばかり負担をかけて」
「な……なに言ってんだよ……!」

いつになく下手したてな態度を示してくる氷河に、それでなくても思考と感情が混乱していた星矢は、大いに戸惑うことになった。
その戸惑いが落ち着いてくると、今度は妙にしんみりした気持ちになる。
恋をすること、弟を愛しむことをやめろと、二人に言うことはできない。
アテナの聖闘士失格と言って二人を責めることも、星矢にはできなかった。
星矢にできることは、私情だけで動いているという仲間を認め、受け入れ、励ましてやることだけだったのである。

「おまえと瞬は生きている。もちろん、これからも生き続ける。それは俺と紫龍が保証する。だから、おまえの不安はわかるけど、あんまり考えすぎんなよ」
「瞬は生きているから、泣いたり笑ったりする。それはわかっているんだが、どうしても俺の不安は消せなくてな。五感のすべてを使って確かめないと、瞬が生きていることを実感できないんだ」
「そっか……瞬が生きていること、確かめたいよな……」

それであれほど――非常識なまでに――盛るのだと思えば、常軌を逸した氷河の振舞いを許せないこともない。
やはりこれは大目に見てやるしかないことなのだと、星矢は譲歩する気になったのである。
というより、星矢は、瞬の狂気に連動して 氷河の狂気までが発動する事態を避けるために、これはどうあっても譲歩するしかない事柄なのだと納得したのである――納得するしかないと思ったのだ。

「惚れた相手が あの瞬じゃ、おまえも色々 大変だよな……。でもさ、なんで昨日は階段だったんだ? 瞬が生きていることを実感するのが目的なら、それに向いた場所は他にいくらでもあるだろ」
「ああ、あれは――」
氷河の素朴な疑問に、氷河が軽く顎をしゃくる。
そうしてから、彼は、にこりともせずに、
「あれは単なる趣味だ」
と答えたのだった。

「そっか、単なる趣味……」
しんみりモードを保ったまま、大変な恋人を持ってしまった男に頷きかけていた星矢は、その直前で、これは しんみり頷き返してやっていいことではないという事実に気付くことになったのである。
「単なる趣味だとぉ〜っ !! 」
結局 氷河に向けられる星矢の声は、昨日同様 怒声になってしまった。
涼しい顔で、氷河が首肯する。

「趣味という言い方が気に入らないなら、一種の探究心ととってくれてもいい。傾斜と段差をうまく使ったら、いつもと違う刺激を得られるかもしれないと思ったんだが、あれは瞬に無理な態勢を強いることになって、あまりよろしくないことがわかった。あそこではもうやらんから安心していろ」
言われるまでもなく、星矢は安心していた。
だが、それ以上に、星矢は怒りに燃えていた。
テーブルの上に置かれた星矢の二つの拳がぶるぶると震える。

「ひ……人が真面目に心配してやってんのに、てめぇ !! 」
今度こそ派手な音を立てて、星矢は掛けていた椅子から勢いよく立ち上がった。
星矢の怒声など聞こえていないような様子で、氷河が朝食のプレートとパンの入ったバスケットを手にとる。
「ああ、これ以上 瞬を待たせるわけにはいかん。腹が減ると、瞬は機嫌が悪くなる。なにしろ、俺の瞬は生きているから」

おそらく氷河は、星矢を怒らせる才能だけでなく、給仕の才にも恵まれている。
二人分の朝食のプレートを手にして動きが鈍っていていいはずの氷河は、
「おい、こら、氷河、ちょっと待てっ!」
星矢が怒鳴って その場に引きとめようとした時には既に、ドアの向こうに姿を消してしまっていたのだ。
結局 星矢は、ドアに向かって、
「この エロ聖闘士〜っ !! 」
と怒鳴ることしかできなかったのである。

「俺はもうぜってー、大目になんか見てなんかやらねーぞ! もう、うさぎ屋のどら焼きでも買収されねぇっ !! 」
憤懣やるかたなしと言わんばかりに顔を真っ赤に染め、星矢は拳をテーブルに叩きつけた。
星矢の怒声が、食堂のドアと壁とにぶつかって、空しく星矢の許に帰ってくる。

そんな星矢の様子を見て、紫龍はといえば、これはもう苦笑するしかなかったのである。
何を言ってやっても星矢の怒りは(今は)消えないだろうことは わかっていたし、白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が抱えている狂気を星矢に深刻なものと思わせないために、氷河はああ言うしかなかったのだということも、彼にはわかっていた。
紫龍としては、この場では、星矢を怒らせるままにしておくことしかできなかったのである。

生きているから、人は、泣き、笑い、腹を立て、時には狂気に支配されかけることもある。
あるいは人は誰もが、ぎりぎりのところで正気と狂気のバランスをとって生きているものなのかもしれなかった。
その心身を気遣い腹を立てられる相手がいること。
『あの人のために生きていたい』と思える人がいること。
そんな事共が、人を正気の側に留め置いて生かし続ける力なのかもしれないと思いながら、紫龍は、怒れる星矢の隣りで冷えたコーヒーを一口すすったのだった。






Fin.






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