「氷河、おかえりー!」 視界を遮るものとてない広い北の大地を転がるように駆けてきた小さな子供。 彼は、瞬たちが立つ場所から2メートルほど手前の位置で大地を蹴り、そして、そのままの勢いで氷河に飛びついてきた。 瞬が驚いたのは、だが、その子供の身軽さではなく、氷雪の聖闘士に飛びついてきた彼の行動そのものでもなく、ましてや、梅雨の湿気を厭うて やってきたシベリアの地が やっと春を迎えたばかりの様相を呈していることでもなかった。 その子供に向けられた氷河の笑顔の方――完全に明るく、全く屈託のない笑顔。 その笑顔にこそ、瞬は驚いたのである。 そして、氷河のこんな明るい笑顔を、自分はこれまでに見たことがあったろうかと、瞬は疑うことになった。 おそらく、瞬は その稀有なものをこれまで ただの一度も見たことがなかった――聖闘士として再会してからは確実に、ない。 見たことがなかったから、瞬は驚いたのだ。 その事実に気付き、瞬は少しばかり寂しい思いを抱くことになったのである。 氷河に飛びついてきたのは、大きくて素直そうな目をした7、8歳の男の子だった。 人の悪意や、生きることの本当の試練を知るには まだ早い年頃。 実際 彼はそれらのものに まだ出合ったことはないのだろう。 かつて城戸邸に多くの子供たちが集められた時、その子供たちはこの男の子と同じ歳頃だった。 あの頃、自分たちはこんな目をしていただろうか――こんな素直な瞳を持っていただろうか――と、思う。 その疑念に対する確かな答えを、瞬は持っていなかった――憶えていなかった。 事実がどうだったのかを思い出すことはできなかったが、ただ、瞬は、かつての自分たちに思いを馳せることで、この小さな少年に向けられる氷河の屈託のない笑顔の訳だけはわかったような気がしたのである。 この子供は、氷河にとって、母を失わなかった自分、聖闘士にならなかった自分なのだ――と。 「長いこと帰ってこないから、氷河は俺のこと忘れちゃったのかと心配してたんだ」 氷河がシベリアに戻るのは1年振り。 素直で利発そうな目をした子供は、少し拗ねたような口調で、氷河にそう言った。 言ってから、彼は、彼の旧友が一人で故国に帰ってきたのではないことに 初めて気付いたらしい。 氷河の隣りに立っていた瞬に、彼は怪訝そうな目を向けてきた。 「ああ、瞬。こいつが――」 「ヤコフ」 氷河に幾度も聞かされていた名を、氷河に繰り返される前に口にする。 シチュー作りが得意な、氷河の小さな友だち――と、瞬は聞いていた。 「はじめまして、ヤコフ。僕、瞬だよ。僕も氷河の友だち」 氷河が不満そうな顔をするのに気付かぬ振りをして、瞬はヤコフに自分をそう紹介した。 少しでも目の高さが同じになるように腰をかがめ、微笑しながらヤコフの顔を覗き込む。 ヤコフは、彼が初めて会う“氷河の友だち”に、何かに挑むような険しい目を向けてきた。 何も言わずに、“氷河の友だち”をじっと見詰めるばかりのヤコフに、瞬は少々不安を覚えることになったのである。 「氷河、僕のロシア語、変?」 「おまえは、誰がおまえにロシア語を教えたと思っている。訛りがないのが嫌味なくらい、おまえのロシア語は完璧だ」 「そう……?」 言葉が通じているのなら、何らかの反応があってもよさそうなものなのにと、瞬は思ったのである。 ヤコフは人見知りはしなさそうな、親しみやすい印象の子だったし、瞬は これまで子供に嫌われた経験がほとんどなかった。 しかし、氷河の小さな友人が瞬に向ける視線は、到底親しみを含んだものとは言い難く、睥睨とまでは言えないにしても、奇妙な緊張をはらんだ凝視ではあった。 いったい この少年は、初めて会う“氷河の友だち”の中に どんな邪悪の影を見い出したのかと 瞬が訝らずにはいられないほど、それは強い力を持った視線だったのである。 長く続くヤコフの無反応と沈黙に、瞬がきまりの悪さを覚え始めた頃、ヤコフはやっと口を開いてくれた。 「氷河は、世界征服を企む悪い奴等を退治するのに忙しくて、なかなかシベリアに帰ってこれないって言ってたけど――」 「その通りだよ」 「……氷河がシベリアに帰ってこなくなったのはアナタのせい?」 『あなた』の響きが、よそよそしい。 氷河の小さな友人の声音には、皮肉の響きさえにじんでいた。 「ヤコフ……あの……」 「氷河のマーマがこのシベリアの海にいる限り、氷河はシベリアを忘れないって――離れられないって思ってたのに、氷河はマーマのことも俺のことも忘れちゃったみたいだ。きっとアナタのせいで」 「そんなことはないと……」 「おい、ヤコフ。それは瞬のせいじゃ――」 それは、『氷河のせい』であるよりは『氷河の友だちのせい』である方がいいことだろう。 そう考えて、瞬は、“友だち”を庇おうとする氷河を、言葉ではなく その手で氷河を制した。 もう一度、ヤコフの顔を覗き込む。 「ヤコフは氷河がシベリアにいた方がいい?」 「氷河はアナタみたいな人は嫌いなんだと思ってた。アナタは氷河のマーマには似てないよ」 「ヤコフは氷河のマーマに会ったことがあるの?」 「氷河のマーマは死んでる。アナタは生きてる」 「……」 会話が噛み合わないのは、氷河の小さな友だちの利発がすぎるからなのだろう――と、瞬は思った。 早すぎる思考に合わせて言葉を発するので、どうしても彼は言葉を一つ二つ省くことになるのだ。 幼い頃の氷河も、それで周囲の者たちに、随分とぶっきらぼうな印象を与えていた。 彼は、幼い頃の氷河に似ている。 そして、瞬と氷河の母親が似ていないという彼の意見は、実に正鵠を射たものだった。 その二人の人間は確かに似ていないだろう。 生と死の間には、絶対的な隔たりがある。 瞬は、ヤコフに言うべき言葉を見付けることができず、少なからず戸惑うことになったのである。 そんな瞬を睨んでいたヤコフが、ふっと瞬の上から目を逸らし、突然 瞬たちの前から駆け出す。 7、8歩駆けたところで彼は再び突然立ち止まり、瞬たちの方を振り返ると叫ぶように言った。 「氷河の家に、シチュー置いてきた」 「あ……ああ」 氷河が頷くのを確かめて、また駆け出す。 途端に 春が来たばかりの大地で萌えかけていた草に足をとられたのか、ヤコフはその場で頭から派手に転んでしまった。 小さな声をあげて、瞬はヤコフの側に駆け寄ろうとしたのだが、瞬が彼に手を差しのべる前に、ヤコフは その場に素早く立ち上がった。 そして、再び駆け出す。 そんなふうにして、1年振りに会った友人とその友だちを一度も振り返ることなく、氷河の小さな友だちは そのまま瞬たちの前から姿を消してしまったのだった。 利発で意地っ張りな子供の、子供らしい所作。 瞬の口許には、自然に笑みが浮かんできてしまったのである。 「なんだかすごく……可愛い子だね」 が、さほどの時間を置かずに、もしかしたら自分は あの可愛らしい子供を傷付けてしまったのかもしれないという思いが、瞬の微笑に僅かな翳りを運んでくることになったのである。 平生であれば、『子供のすることだ、気にするな』くらいのことは言ってくれるはずの氷河が、今は無言でヤコフの駆けていった方を見詰めていた。 瞬は、そして、そんな氷河の横顔を認め、訝ることになったのである。 氷河の視線は、どう見ても、可愛らしい子供の行動を微笑ましげに見詰める大人のそれではなかったのだ。 「氷河?」 「あ、いや。ヤコフは、いつもはもっと――誰にでも愛想のいい奴なんだが……」 「僕は、ヤコフとシベリアとマーマから氷河を奪った悪者なのかもしれないね」 「なら、いいんだが……」 「え?」 では、いったい氷河は何を懸念しているのか――。 氷河の呟きの意味を理解できず、瞬は首をかしげた。 |