俺は、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂のファサードを眺めている旅行者らしい二人連れを見ていた。 男の方は30を超えているだろう。 俺より10歳は年上。 背が高く、体格もいい。 動作に無駄なところがなく、かなり鍛えられている体躯。 おそらく、職業は傭兵。でなかったら、どこかの国の軍人だ。 濃紺の簡素な――だが、決して貧しい者が身につけるものではない――服の下には さぞかし見事な筋肉が隠されているのだろうと、俺は思った。 実際、目で見ることのできる脚の線は、成人男性のそれとしては ほぼ完璧。 古代ギリシャのアポロンの彫像を見せられているようだった。 特筆すべきはその金髪。 ヴェネツィアの女たちは、本来は金色でない髪を陽光に髪をさらして色を落とし、いわゆるヴェネツィア金髪というものを作るそうだが、彼は、そんな女たちが羨望のあまり憤死してしまいそうなほど華やかな金髪をしていた。 それが ローマの午後の陽光を受けて輝いている。 男の連れは、彼より はるかに小柄で、髪も濃褐色の少女だった。 顔立ちには どこか東洋的なところがあるが、我々が東洋人に感じる あの謎めいた――と言えば聞こえがいいが、いかにも隠しごとをしているような――目はしておらず、その印象は、清純、素直、温和。 連れの男より10歳は若いように見えたが、もっと若いかもしれない。 男の所作が硬質なのに対して、少女の仕草は あくまで ものやわらか。 だが、その隙のなさは連れの男以上で、もし彼女が清らかな乙女の顔を持っていなかったら、俺は この少女も軍人かと疑っていたかもしれない。 俺が、二人を旅行者だろうと判断したのは、少女の方が男装していたからだ。 暮らし慣れた場所を離れ、見知らぬ他人の中に入っていく人間としては妥当な用心。 確かに、あれだけ綺麗だと、誰に目をつけられるかわからない。 掴まえてトルコにでも売り飛ばしたら、その商人はそれだけで一財産を築けるだろう。 もっとも、男装していても、彼女の用心は完璧とはいえないものだった。 その美しさは隠しようもなく、涎を垂らして彼女のために大金を積む輩は、この町にも腐るほどいるだろうから。 いずれにしても、ローマの自堕落な女たちが、美しく金も持っていそうな旅行者に声をかけられずにいるのは、二人が美しすぎるせいだったろう。 そして、二人の様子があまりに親密そうに見えるから。 その表情や仕草。投げ、受けとめ、絡み合う視線のやりとり。 よほど鈍感な人間か、あるいは よほど図々しい人間でもなければ、この二人の間に割り込んでいくには勇気が要る。 そんな二人連れだった。 彼等が俺の目を引いたのは、全くタイプの違う二人が、それぞれに見事としか言いようのない比率で構成されたその肢体を持っているからだったろう。 彼等はまず造形的に美しかった。 年長の男の方は険しい、どこか冷たささえ感じられる眼差しの持ち主で、少女の方は、ひたすら優しげ。 そういう違いはあったが、その表情からは、共通して善良な気質が窺える。 悪党面はしていない。 狡猾なようにも、貪欲なようにも 無論、人間という生き物はいろいろと複雑で、見た目だけでは その本性まではわからないものだが、俺にはそれで十分だった。 二人が事実 善良な人間かどうかなんて、そんなことは どうでもいいこと。 肉体の見た目の美しさ、表情の美しさがあれば、他のすべてはどうでもいいことなんだ。 彫刻家の俺にとっては。 俺は鈍感な人間ではないつもりだが、図々しい人間ではある。 それが、俺の仕事に必要なことであれば なおさら、何事にも物怖じを感じることはない。 たっぷり観察して、俺は その二人を 知り合う価値のある人間と判断した。 そして、つかつかと彼等の方に歩み寄り、二人に声をかけた。 「まさか巡礼者ではないだろうな? この腐りきったローマに」 「え?」 突然 見知らぬ男に声をかけられた美少女が、驚いたように顔をあげる。 途端に、俺は、この美少女が 少女ではなく少年だということに気付いた。 肢体の細さが、少女の細さではなく少年の細さだったんだ。 自分の迂闊と とんでもない勘違いに気付き、俺の心臓は急に ばくばくと派手な運動を始めた。 この勘違いを、彼(!)に悟られないようにするために、俺はかなり顔を引きつらせることになった――と思う。 もちろん、少女が少年でも 間近で見ると、その美少女――美少年か――の美しさは想像以上のものだった。 顔の造作の出来がいいことは 距離をおいて眺めていた時からわかっていたが、彼女の真の価値は そんなところにはなかった。 顔の部品の形や配置なんかより、その肌のなめらかさ。 その肌のなめらかさよりも、瞳の佇まい。 彼女の瞳は、異様なほど澄んでいるのに、とてつもなく深かった。 生まれたばかりの赤ん坊だって、こんな目はしていないだろう。 人の心だけではなく、世界をも見通すような目。 天使なら こんな目を持っているのかもしれないと、俺は思った。 こんな人間に、なんて詰まらない第一声を発してしまったのかと、俺は自分の油断に腹を立てた。 それでなくても――自慢じゃないが、俺の面相はかなり悪い。 以前 同輩と喧嘩をした時、顔を殴られて鼻が曲がってしまったんだ。 おかげで、それでなくても美しいとは言い難かった顔が 一層悲惨なことになり――いつも誰よりも美しいものを求めている俺自身は容貌魁偉な男だ。 そんな怪しい風体の男が、『ようこそローマへ』と愛想良く言うならまだしも、『この腐りきったローマに』。 そんなことを言われて、いい気分になる人間がいるはずがない。 この腐りきったローマ。 しかし、この町は華やかだ。 活気もある。 法王のお膝元、欧州の中心。 見る価値のある建造物も多い。 巡礼する価値はないにしても。 幸い、彼女は、俺の面相を見ても逃げ出したりはしなかった。 ほんの少し 表情をやわらげ、微笑みといっていいものを、その瞳と唇に刻む。 「巡礼者ではないですね」 と、彼女はイタリア語で答えてきた。 少し訛りがあるのは外国人だからだ、おそらく。 ローマの外という意味ではなく、イタリアの外。 「イタリア人ではないようだが」 ともかく返事をもらえたことに安堵して、俺は言葉を続けた。 彼女が軽く頷く。 「ギリシャから来ました。最近イタリアでは、ギリシャの神話や哲学が――あ、ここではローマ神話と言った方がいいんでしょうか。以前は教会に否定されていた古い文化の見直しが起こっていると聞いて。でも、ローマはさほどでもないみたい。アテナやアポロンの絵や像があふれかえっているのを期待していたんですが、この町は、そういったものより建築物の方が見事です」 古代ギリシャ文化の見直しの運動は、ここローマじゃなく、フィレンツェで起こった。 フィレンツェのプラトン・アカデミーで人文学者たちが研究を始め、その影響を受けた芸術家たちがギリシャ神話に題材をとった作品を数多く生み始めたんだ。 特に有名なのが、フィレンツェにあるボッティチェリの『プリマヴェーラ』と『ヴィーナスの誕生』あたり。 あれは、異教の神を実に堂々と描いた代物だ。 法王のローマではなく、メディチ家のフィレンツェだからこそ描けた絵。 世の中では、傑作と言われているらしい。 俺にはとてもそうは思えないんだが。 そう、もともと“絵画”という創作手段が嫌いなせいもあったが、俺にはボッティチェリの描く絵が美しいとは どうしても思えなかった。 ボッティチェリは、人間の身体の構成を無視している。 その上で、“美しさ”だけを描こうとしてできた作品があれだ。 あの画家が描こうとしたものは、現実に目に見える美ではなく、美のイデア、美の概念。 その点では、もしかしたら、奴の試みは成功しているのかもしれない。 だが、その試みの結果である奴の作品が俺の目に美しいものとして映るかどうかということになると、それは全くの別問題だろう。 俺も、フィレンツェにいた頃には、ロレンツォ・ディ・メディチが後援したプラトン・アカデミーに集まる人文主義者たちと、美について、芸術について、哲学について語り合った。 そのやりとりの中で、芸術に関する着想を広げることもできた。 奴等に大きな影響を受けたことは否定しない。 だが、俺は、あくまでキリスト教徒だ。 特に、今は、イエスやマリアには興味があってもヴィーナスには興味がない。 まして、ボッティチェリの描いた、身体が不自然に捩じくれたヴィーナスやフローラには興味がない。 俺には、それが ボッティチェリの作品に対する評価のすべてだった。 “興味がなく、気に入らない”。 俺は、俺の顔に、そういう表情を浮かべてしまったらしい。 美少女ならぬ美少年は、そんな俺を見て、困ったような顔をした。 その時々の感情を隠したり偽ったりできないのは、俺の悪い癖らしい。 『パトロンにはいつも笑顔で媚びへつらっていないと、大きな工房の親方にはなれないぞ』と、忠告なのか揶揄なのかわからないことを、俺は人からよく言われる。 だが、不愉快な時に心にもない笑顔を作るなんて、そんな真似はどうすればできるんだ? その方法が、俺には全くわからない。 だから、どうしようもない。 と、それはさておいて。 ギリシャからやってきた美少女は、俺の顔が不機嫌になった原因は、この町に由来するものと思ったらしい。 彼女――違う、彼だ――は、異教の神の名を出して、この町の実情について尋ねてきた。 「ヴェネツィア、フィレンツェとまわって、ローマに来たんですが、法王のいるローマでは さすがにアテナやアポロンへの賛美はご法度ですか」 アテナやアポロンがご法度? とんでもない。 この町は、何でもありの町だ 妾も子供もいない聖職者の方が珍しいくらい、何でもありの町。 システィナ礼拝堂を飾るために フィレンツェから大物の親方たちが入れ替わり立ち変わりローマに派遣されてきているが、俺は、いつか奴等がキリスト教の礼拝堂をアテナやアポロンでいっぱいにしてしまうんじゃないかと案じているくらいだ。 まあ、さすがに、それは杞憂だろうが、俺は、美少女の唇から故郷の名が出たことで、少し機嫌がよくなった。 フィレンツェ――俺の故郷。 実質的にはメディチ家が支配しているようなものだが、どれほど力があっても、メディチ家の現当主 ロレンツィオ・ディ・メディチは無冠の帝王にすぎない。 フィレンツェは共和国だ。 たとえば、もしメディチがフィレンツェの王になろうとしたら、フィレンツェの民は皆、独裁者を倒すために立ち上がるだろう。 俺は、そういう故郷の町に誇りを持っている。 フィレンツェ人だから、俺はこのローマでも胸を張っていられるんだ。 |