「フィレンツェでは何を見てきたんだ?」 故郷の名に浮かれて そう尋ねてしまってから、俺は臍を噛んだ。 そんなことを尋ねたら、俺は、それこそボッティチェリへの賛美を聞く羽目になりかねない。 が、意外なことに、美少女――美少年だ――が口にした名は、ボッティチェリではなかった。 てっきりボッティチェリかレオナルドの名が出てくると思ったのに。 まあ、レオナルドは、作品を途中で放っぽってしまうことが多くて、完成品自体がほとんどない巨匠だが。 「メディチ家の館で拝見した、『ケンタウロスの戦い』と『階段の聖母』の二つの浮き彫りが特に印象に残っています。造形も技術も素晴らしかった。ミケランジェロ・ブオナローティという彫刻家が作ったものだそうですが、残念ながら当人には会えなくて」 「……」 故郷の名どころか、自分の名を出されて、俺の心臓は跳ね上がった。 俺は なのに――俺はまだ何事も成し遂げていないっていうのに、彼女は そんな俺の作品に目をとめてくれたというんだから。 「あ……あれは……メディチ家には世話になったから、置き土産のつもりで彫ったんだ。習作にすぎない」 「え?」 俺の告げた言葉の意味を、彼女は咄嗟に理解できなかったらしい。 やがて理解して、 「ミケランジェロ・ブオナローティさん?」 と、俺に俺の名を 優しい声で問うてくる。 俺は言葉もなく頷いた。 この出来すぎた偶然は、いったいどういう奇跡なのかと、俺は思ったさ。 この腐りきったローマで奇跡とは、全く信じられない話だ。 「ああ、すみません。とてもがっしりした方なので、軍人さんだとばかり」 申し訳なさそうに彼女は瞼を伏せたが、俺は自分が無骨な軍人と間違われたことに少しも腹は立たなかった。 彼女の誤解は無理からぬもの。 俺は毎日、石を相手に全身で戦っているんだ。 当然、そこいらで飲んだくれている傭兵なんかより はるかに発達した筋肉を持っている。 俺を軍人と見誤るくらいのことは、俺が彼女――違う。彼だ――彼を彼女と見誤ったことに比べれば あまりに些細な誤りだ。 俺は、自分の感情を隠したり偽ったりすることのできない男だ。 要するに単純なんだ。 彼女――いや、彼か。ああ、もう そんなことはどうでもいい――彼女に自分の名を出してもらえたことを、俺は単純に喜んだ。 とはいえ、俺が喜んだのは、自分の作品を褒められたことより、彼女の口から ボッティチェリやレオナルドより先に俺の名が出たことだったかもしれないが。 俺がミケランジェロ・ブオナローティと知って、天使のごとき美少女は嬉しそうに瞳を輝かせて尋ねてきた。 「今は何を制作されているんですか」 「聖母子像――ピエタだ。磔刑に処され、十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリア。フランスから来たジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ枢機卿からの注文で――」 「ピエタ! 楽しみです」 明るい表情でそう言ってもらえると、俺としてもありがたい――話を切り出しやすい。 そう、俺は、次の作品のモデルを探して、この腐りきったローマの町を徘徊していたんだ。 「ずっとモデルを探していた。モデルにしたい」 「ヒョウガをイエスの?」 「あ?」 美少女がそう言うのを聞いて、俺は初めて、俺が この旅行者たちの名前を聞いていなかったことに気付いた。 まあ、彼等に声をかけた俺が名を名乗らずにいたんだから、それも当然のことなんだが。 さっきから無言無表情で 俺と美少女のやりとりを聞いていた金髪男の名は『ヒョウガ』というらしい。 ギリシャではよくある名なんだろうか。 あまり聞いたことがない――というか、初めて聞く名だ。 が、俺の目当ては金髪男の方じゃない。 俺が彫ろうとしているのは、死せるイエスと聖母マリア。 アポロンでもなければヘルメスでもないんだ。 綺麗なオトコはお呼びじゃない。 「瀕死のイエスが こんなたくましい身体をしているものか。俺がモデルにしたいのは君だ。君を聖母のモデルにしたいんだ」 俺は至って真面目に、真剣な顔と声で言ったと思うんだが、彼女は俺の訴えを聞いて吹き出した。 そして、幾度か首を左右に振る。 「僕は30になったばかりです。イエスが天の父の許に帰っていったのは33歳の時でしょう。今のヒョウガと同じ年齢です。僕にヒョウガの母は務まりませんよ。マリアはもっと歳がいっているでしょう」 「……」 俺が彼女の前で阿呆面をさらしたとして、いったい誰が そんな俺を責められるだろう。 彼女は 今、何と言った? さんじゅう――と聞こえた気がしたが。 俺は、乾いて引きつった笑いを、自分の顔に貼りつけることになった。 愛想笑いはできないのに、こういう笑いは自然に生じてくる。 「30? まさか……。どう見ても20歳そこそこ。いや、10代でも通る――」 俺は今、22歳だ。 俺より3、4歳は年下に見える美少女が、実は30男だったなんて、俺に信じろという方が無理な話だ。 「よく言われます」 あまり嬉しそうにではなく、美少女は言った。 それから、少々不審そうな目を俺に向けてくる。 それはそうだろう。 俺はつまり、33歳の男の母親のモデルを 10代に見える少年に頼もうとしていた――んだから。 だが、マリアになぞらえられる人間は、この少年しかいないと、俺の彫刻家としての直感が訴えてくるんだ。 「おまえは、心が10代のままだから、それが姿に出るんだ」 俺があからさまに不機嫌な顔をしていた時にも口を開かなかった金髪男が、初めて口を開いたのは その時だった。 俺の不機嫌はどうでもいいが、この美少女の不機嫌は放っておけない。 そういうことらしい。 「それは、僕が10代の頃から全く成長していないっていう意味?」 呆れるほど可愛らしい様子で拗ねてみせる この美少女が30男。 俺は目眩いを覚え始めていた。 「汚れていないという意味だ。知識なら、おまえは あのプラトン・アカデミーにたむろしていた人文学者たち以上だし、精神的な強さなら、あのロレンツィオ・ディ・メディチにもひけをとらないだろう。俺を含めて大抵の人間は、歳を重ねるに従って、世の中の汚れを認め、受け入れ、諦めることをする。だが、おまえはそうしない。それだけのことだ」 この二人は、俺とは違う世界のイタリア語を喋っているんだろうか。 彼等の世界では、『30』は『20』で、『男』は『女』で、『強い』は『弱い』、『博識』は『無知』なのか? そうとでも考えなければ、俺には、金髪男の賞讃を理解することができなかった。 この10代にも見える少年の知識が、強さが、イタリア最高の知識人たちや当代随一の治世者に勝るとは。 この男は正気でそんなことを言っているのかと俺は疑ったが、金髪男はいたって正気のようだった。 正気の人間の目をしていた。 正気の目をして、金髪男が俺の方に向き直る。 そして、彼は真顔で俺に言った――忠告してきた。 「メディチの館にあった浮き彫りは俺も見た。見事な出来だった。だが、貴様は形を追うことしかできていない。全く無能なのなら問題はないが、貴様には中途半端に才能がある。シュンを作品のモデルになどしたら、貴様は シュンの心に負け、芸術家として挫折することになるだろう。やめておけ」 「ヒョウガ! そんな不吉なこと 言うものじゃないよ!」 美少女――美少女に決まっている! ――は、シュンという名前らしい。 やっと彼女の名に辿り着けたことを喜ぶ余裕は、俺にはなかった。 俺が芸術家として挫折するだと? この美少女に対峙することで? この男はいったい何を勘違いしているんだ! 「俺がこの子の心に負けるだと !? あんたは何を言っているんだ。俺は心などいらん。俺はこの子の美しい姿形が欲しいんだ。心をどうやって石に刻む? 形のないものを、どうやって目に見えるものにできるというんだ!」 それは不可能なことだ。 不可能であるがゆえに無意味だ。 そんなことができる者がいるとしたら、それは神ただひとりだけだろう。 人は そんな神のわざに挑むようなことをすべきじゃない。 俺の激昂と怒声を、だが、金髪男は涼しい顔で受け流した。 いや、受け流しはしなかった。 彼はほとんど表情のない顔で、 「フィレンツェで それをした者の作品も見た。いや、しようとしている者の作品というべきか。俺に言わせればアプローチ方法が間違っているように思えるんだが、心を形にしようとしている者はいる」 と言ったんだ。 「馬鹿馬鹿しい! いったいその思いあがった狂人は誰だ」 「レオナルド」 「……!」 天敵にして、宿命のライバルの名を出され、俺はむっとした。 まあ、ライバルとか天敵と言っても、向こうは俺のことなど歯牙にもかけていないだろう。 歯牙にもかけていないどころか、俺の存在を認識しているかどうかさえ疑わしい。 あちらは、誰もが認める万能の天才。 俺はまだ何も成し遂げていない、ただの若造だ。 俺は、レオナルドの力は認めている。 ものの形を捉え、その形を画布に写し取るレオナルドの力は、ボッティチェリとは桁違いに優れている。 奴は、理想を描こうとするボッティチェリとは違って、現実に存在する形を描いているから。 奴の描く人物の“形”はそうだ。 だが、奴の作品が かもし出す空気は現実的じゃない。 奴の描く人物はあり得る。だが、作品はあり得ない。 レオナルドの作るものはそういうものだ。 俺は、あり得ないものに負けたくはなかった。 「あの老いぼれが、それをしようとしているのなら、俺が先にそれをやってやる。心を石に刻んでやろうじゃないか! 芸術などわかりもしない軍人あがりが、きいたふうな口を叩くな!」 金髪男に そう大見得を切った時、多分 俺はかなり混乱していた。 正気だったなら、俺はそんなことは言わなかったはずだ。 芸術家として挫折すると言われたこと、レオナルドへの対抗心。 そんなものが、俺をまともでない状態にしていたんだ。 特に、レオナルドがしようとしていることが 俺にはできない と言われたことが、実績はないのに 負けん気だけはあり余るほどにある俺の自尊心を逆撫でした。 そもそも、俺が『老いぼれ』と呼んだレオナルドは、 そして、奴は既に高い地位と確固たる名声を手にしている男だ。 そういう奴が新しいことに挑もうとすることがあるだろうか。 挑まないなら、それはもう老いぼれだろう――俺は、以前から自分にそう言いきかせていた。 本当は、50になっても60になっても レオナルドは新しい何かに挑み続けるだろうことがわかっているから、俺は奴が気に入らないのかもしれなかった。 今現在 俺のずっと先にいる者が、いつまでも老いぼれずにいたとしたら、俺は決して奴を追い越せないということになる。 そんな事態だけは、俺は断じて認められない――我慢ならない。 きいたふうな口を叩いたのは、奴にしてみれば俺の方だったんだろう。 金髪男は、シュンとは違い、その姿の通りに、俺より10は年上の、いわゆる大人というもののようだから。 若造の気負いには付き合っていられないというような態度で、奴は唇の端を微笑に似た形に歪めた。 「全くだ。この話はこれでやめよう」 そう言って、金髪男が踵を返す。 彼はそのまま、聖堂前の広場の外に向かって すたすたと歩き始めた。 俺に済まなそうに頭を下げ、シュンがすぐにあとを追う。 金髪男の腕を捉え、シュンは奴の無礼を たしなめるか何かしてくれたようだったが、奴はシュンの話に耳を傾けるようなことはしなかっただろう。 ヒョウガを見上げるシュンの横顔の隣りで、奴の肩と背中は僅かに揺らぐこともなかったから。 |