これほど頼んでも駄目なのかと、俺が絶望しかけた時、思いがけないところから、俺に援軍が現われた。
本当に思いがけないところから、だ。
「おまえにちょっかいを出したいだけの助平な阿呆かと思っていたが、そうではないようだ。この男の目には力がある。もしかしたら、おまえにも負けないかもしれない」
シュンに そう言ってくれたのは、昨日 俺をていよくシュンから追い払ってくれた、あの金髪男だった。
「ヒョウガ」
「この若造の心を感じるんだ。応えてやれ」

ヒョウガのその言葉に、シュンは驚いたようだった――というより、シュンは憤ったらしい。
シュンはその憤りを言葉にした。
それは、天使のように清純なシュンの姿からは想像もつかない、実に世俗的なもので、そのあまりの思いがけなさに、俺は意表を突かれることになった。
シュンは、
「僕を、ヒョウガ以外の人がじろじろ見るんだよ! ヒョウガはそれでもいいの!」
と言ったんだ。
「慣れている。美しい恋人を持った男の宿命だ。耐えるさ」
ヒョウガがシュンをなだめるように そう言い、しかし、シュンは素直になだめられることはしなかった――ように、俺には見えた。

同性愛。
この二人は、神の教えに背く愛の実践者であるらしい。
もちろん、それはイタリアではありふれた罪だ。
あのレオナルドさえ、その罪で裁判所に告発されたことがある。
ありふれてはいるが、特に地位ある者のその罪が露見し有罪とされると、彼は社会的地位を失い、処罰を受ける。
処罰は、投獄であったり、鞭打ちであったり、財産の没収であったりと、裁判官たちの裁量に委ねられることになるが、決して軽い処罰では済まない。
火刑に処されることもある重罪だ。

俺には全くその趣味はないし、それは、俺にとっては噂に聞くだけでも嫌悪の念を抱かせる醜悪な嗜好だった。
これまではそうだった。
だというのに、彼等がそう・・だと知らされた時、俺は、神に与えられた肉体に余計なものを一切まとわずに抱き合う この二人は、どれほど美しいだろうかと、そんなことを考えてしまったんだ。
それとも、この二人が為す行為でも――この二人でも――、それは常の人間の営みと変わらず醜悪で浅ましいものなんだろうか。

『そんなはずはない』と、俺に反論してきたのは、あろうことか俺の理性だった。
この二人はおそらく深く愛し合い、理解し合い、信頼し合っている。
二人の眼差しが、無言のうちに その事実を物語っている。
その二人の抱擁を美しいと感じられないのであれば、汚れているのは絶対に俺の方だ。
俺の理性は、俺に そう主張し、俺自身もその主張を受け入れた。
本音を言えば、その様を見てみたいとすら、俺は思った――願った。
シュンの剣幕からして、その願いは叶えられそうになかったが。

俺が二人の罪をしかるべき場所に訴え出ることなど考えてもいない様子で、ヒョウガは、他人おれの前で堂々と シュンを説得してくれた。
「この男の目的が果たされることは、我々にとっても悪いことじゃないだろう。聖人の清らかさを形にし、人間に己れの罪と弱さを自覚させ、我が身を省みる材料として与える。行ないを正そうとする者や、善い方向に力を養うべく努力を始める者も 出てくるかもしれない。まあ……すべては、この男の腕次第だが」
「……」
ヒョウガにそう説得されて、シュンは結局 俺のマリアになることを承知してくれたんだ。
かなり――気が進まないようだったが。

そんなにヒョウガ以外の男にじろじろ見られるのは嫌なのか。
俺を信用ならない男と思っているのか。
信用できないのは、俺の腕の方か――。
まあ、ヒョウガと違って、俺は柄の悪い外見の持ち主だ。
ヒョウガを見慣れた目には どんな人間だって醜悪に映るだろうが、中でも俺は最悪の部類。
だが、容姿に対する俺の劣等感は、俺の目と心を美に向かわせ、野心を煽り、努力を厭わせない力の源でもある。
美しい二人の前で物怖じするどころか、逆に俺はシュンに向かって身を乗り出すことをした。

「君に特に何かをしてほしいというわけではないんだ。服を脱ぐ必要もない。マリアは女性だ。男の身体は不要。ただ、君を見ていることを許してもらえれば、俺は君の心を石に刻んでみせる!」
その瞳を心行くまで見詰め、語る言葉を聞き、シュンの考え方、感情、心に触れる――。
それで、必ず シュンの心を捉えられるという自信はなかったが、『成功が確実ではないから』という理由で努力を開始しない人間は、絶対に成功することはないだろう。
俺は幸い、僅かでも可能性があるのなら、そのための努力ができる男だった。

「僕の心なんて――何も特別なことはありません」
気負い込む俺の前で、シュンが悲しげに瞼を伏せる。
シュンのその奥ゆかしい言葉――俺はそう思った――を、俺は聞き流した。
自分の心は特別製だなんて宣言する人間の精神が特別だったことはない。
神の代理人とされている法王の心が高潔か?
とんでもない。
奴は、心どころか、その行ないすら汚れている。
それに――まだはっきりとは見えてこない心はともかく、シュンの姿は、確実に特別製だ。
尋常の人間には持ち得ないほど澄んだ瞳、清潔な佇まい、奇跡のような この若さ。

奇跡のような――。
奇跡のような、シュンのこの若さは何なんだろう。
まさか、魂と引き換えに悪魔から与えられた若さ――ではあるまい。
とはいえ、シュンは、それを神に与えられたと思っている節もなかった。
では、これは、ただの・・・奇跡・・などではなく、人の力で為し得ることなんだろうか――?

「しかし、本当に君は30を超えているのか」
つい 尋ねてしまったのは、シュンに接する許しを得たことで、少しばかり俺の気が緩んでしまっていたから――だったかもしれない。
シュンの心を形にするためには、シュンを知らなければならない。
そういう大義名分が、いまや俺には与えられていた。

「ええ。罪の数も年齢と同じだけ重ねてきました。僕は人を傷付け、その命を奪うこともした」
「何のために」
「罪なくして虐げられている人々を守るためです。そのために僕は罪を犯す」
シュンは、自身に言いきかせるように、彼が行なっている矛盾を 俺に語った。
ヒョウガはそんなシュンを無言で見詰めている。

「マリアは、人間ならば誰でも負っている罪を その身に負わされておらず、ゆえに無条件で神の国に迎え入れられたのだそうですね。そんなマリアのモデルに、僕ほどふさわしくない人間はいませんよ。僕の死後の行き先は天上界ではなく地獄界です」
自虐的――というより、その事実を心底から悲しんでいるような目と声と仕草で、シュンは俺に言った。
シュンがマリアのモデルを務めるのが嫌なのは、どうやら、俺が醜悪な男だからでも、彫刻家としての俺の力量を疑っているからでもなく、自分が聖母のモデルとしてふさわしくない人間だと思っているからだったらしい。
あるいは、シュンは、人間にその役目が務まるはずがないと考えているのかもしれなかった。
だが、俺の考えはそうじゃない。

「しかし、マリアは人間だ。マリアにも心はあったはずだ。苦しみや悲しみ、罪を感じたこともあったはずだ」
「え……?」
「マリアの無原罪は彼女が生まれた時からのものじゃない。苦しみや悲しみや罪の果てに、彼女は無原罪を勝ち取ったんだ。おそらく。でなければ、彼女が人間の肉体を持つ者としてのイエスを産んだ意味がない」
聖書に何がどう書かれているのかは知らない。
いや、知ってはいるが、それは、マリア本人やイエス本人が記したものじゃない。
本当のところは誰にもわからない。

すべての人間の罪を その身に引き受けようとする救世主キリストは、人間の女の腹から生まれることに意味があったんだ。
イエスは、そしてイエスの母は、人間でなければならなかった。
俺は そう思っていた。
いや、そう思った。たった今、自分の罪に恐れおののいているシュンを見て。
今のシュンは、確かにマリアのモデルにふさわしくないのかもしれない。
だが、今のシュンの その先にいるシュンには、マリアの心がわかるはずなんだ。

「苦しみや悲しみや罪の果ての 無原罪?」
俺が告げた言葉を繰り返したシュンの瞳から、涙の雫がこぼれ落ちる。
綺麗な涙だった。
ヒョウガがシュンの肩を抱き、その胸の中で一度静かに目を閉じてから、シュンが再び顔をあげる。
そうしてシュンは、微笑んで俺に言った――言ってくれた。
「マリアがどういう女性だったのか、本当のところは僕にはわからない。でも、僕は、あなたの・・・・マリア・・・のモデルになら、なってもいいです」

多分、その時 俺は、父が営んでいた大理石の採掘所で、初めて大理石のかけらから 鳥の形を彫り出した時と同じ感激を味わっていたに違いない。
芸術の『げ』の字も知らない母に褒められて、幼かった俺は有頂天になった。
あの時、俺は、自分に ものの形を作る力があることが嬉しくて、その力を俺に与えてくれた神と父母に心から感謝した。
神は、自分の姿に似せて人間を創ったという。
同じ力が俺の身体にも宿っているんだと思うと、それこそ俺は踊りだしたい気分だった。
その力を、俺は今こそ存分に発揮して、俺のピエタを創る――生む。
そのために必要なものは、すべて揃った――。

「でも、僕たちは長くはローマにいられません。せいぜいあと半月ほどしか」
「十分だ。その間、俺はずっと君に つきまとい、その姿と心を この目と魂に焼きつける」
自分でも抑えきれない激しい創作への情熱。
この情熱があれば できないことなどありはしないと、俺は本気で思った。

ずっとシュンに つきまとい、その姿と心を この目と記憶に焼きつける権利。
その権利を得た その時から、俺は与えられた権利を遠慮なく行使し始めた。
それは、いつもシュンと一緒にいるヒョウガを見詰めることでもあった。
二人は、ほとんどいつも一緒にいたから。

二人が、軍人あがりの大人と 世の汚れをまだ知らぬ子供に見えること――不釣合いな二人に見えること。
二人が同性同士だという事実。
それでも、この二人でなければならないと思わせる何かが、彼等にはあった。
おそらく、長い時間を二人で生きてきたのだろう。
燃えるような恋が 穏やかな愛に変わり、また再び燃え上がる。
そんなことを繰り返しながら。
もう50年もの長きを共に生きてきた二人のように、二人は互いを自然に思い遣り、自然に優しく語り合い、見詰め合い、時には異なる意見を戦わせ、そして慰め合う。
『異質な二人』と思っていたものが『不可分の二人』と思えるようになるのに、大した時間はかからなかった。






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