そんな二人を見詰めているうちに、やがて、俺は気付いたんだ。
実際は同年代の成人男性同士なのだとしても、二人の見かけは違う。
ヒョウガはシュンより年かさに見えるし、体格も優れている。
当然 シュンより力もあるだろうし、シュンより大人の分別も有しているように見える。
だから、二人の力関係もそうなのだろうと、俺は最初のうちは思っていた。
繊細で感受性が強く、すぐに瞳を潤ませ、傷付きやすいシュンを、ヒョウガが守る。
それが二人の立ち位置なのだと、俺は思っていたんだ。

実はそうではないことに俺が気付いたのは、俺が二人と出会って1週間が経った頃。
シュンが一人で両替をしに出掛け、宿に一晩帰ってこないということがあったんだ。
シュンの姿が消えた その日、俺はピエタの注文主であるところの枢機卿に仕事の進展ぶりを説明するよう求められ、ずっと彼の館に引きとめられていた。
一向に石に向かおうとしない俺に、枢機卿は業を煮やしていたんだろう。
俺には俺の都合と計画ってものがあるのに。

貴重な1日を奪われたと腹を立てながら、翌朝 俺が二人の宿の部屋に飛び込むと、ヒョウガが2階の窓からローマの町を眺めていた。
おそらく一睡もしていなかったと思う。
寝た形跡がなかったから。

「シュンは?」
「帰ってこなかった。夕べ」
「なにっ。ローマは夜は特に物騒だぞ。盗賊、追い剥ぎ、人さらい……」
何をのんびり町の風景を眺めているのだと、俺はヒョウガの様子に苛立った。

異教徒トルコとの交易が始まってから、美しい人間は商品になった。
綺麗な子供や女は、法王の冠を飾る無意味に大きな宝石なんかより ずっと高く売れるんだ。
まして瞬のように 誰の心をも捉えてしまうような目と姿の持ち主は。
ヒョウガが呑気に町を眺めている間にも、シュンはトルコ行きの船に乗せられるためヴェネツィアあたりに運ばれているかもしれない。
が、俺が何を言っても、なぜかヒョウガは窓辺から動こうとはしなかった。

「シュンは帰ってくる。取り乱して 町中を捜しまわったりしたら、シュンは俺を心配させたことに罪悪感を感じることになるだろう。だから俺はここを動くわけにはいかない」
でも、捜しに行きたい。
それこそ、サン・ピエトロ広場の中央で、声をあげてシュンを呼びたい気持ちでいっぱいなのだろう。
「なに悠長なことを言ってるんだ!」
と、俺がヒョウガを怒鳴りつけた時、シュンが部屋に入ってきた。

シュンは、人さらいに捕まったわけではなく――行き倒れの外国人の世話をしていて宿に帰ってこれなかっただけだった。
申し訳なさそうに朝帰りをしたシュンを、ヒョウガは無言で迎え入れた。
大袈裟にその無事を喜んだり、一睡もできずに心配し続けていたことをシュンに訴えたりもしなかった。
ただ、無事に帰ってきてくれたシュンを抱きしめただけだった。
そのたくましい身体で、シュンにすがるように。


その日以降、俺は、シュンだけでなく、ヒョウガの方にも意識して観察の目を向けるようになったんだ。
彼の目はいつも、シュンに、
『おまえがいるから、俺は生きていることに耐えられるんだ』
と訴えているようだった。

その訴え、その思いは、多分 神を求める気持ちより強い。
ヒョウガは神を求めてなどいなかったろう
彼は、シュンを――人間を求めていた。
彼には、彼の愛が神の教えに背くものだということなんか、どうでもいいことだったんだろう。
神の前で生涯連れ添うことを誓い、法的にも夫婦として認められることなど無意味――と、彼は思っていた。多分。
そんなことにどんな意味があるというのか。
神より求める“人”がいる男に。
その眼差しに、いつもシュンへの愛をたたえている男に。

俺のピエタに、ヒョウガの“形”は もちろん使えない。
鞭打たれ、人々の嘲笑の中 重い十字架を背負って歩き疲れ果て、あげく十字架に架けられて、渇きと苦悶の末に果てにすべての人間の罪をその身に引き受けて絶命した男の身体が、ヒョウガのそれのように力と生気に満ちていたはずがない。
ピエタのマリアが我が子の死を悲しみ、我が子を愛していなければならないように、ピエタのイエスの人間としての肉体は傷付き疲れ果てていなければならない。
だから、ヒョウガの形は使えない。
だが、その心なら、死せるイエスになぞらえるにふさわしいのではないかと、俺は思い始めていた。

イエスは母に冷淡だったと聖書は言っている。
イエスの宣教の本拠地とも言えるカペナウムの町で、彼は彼の家の外に母がいることを承知の上で、「この家の中にいる者だけが私の母であり兄弟である」と言い放ったとか。
だが、彼がそう言ってしまうことができたのは、『母はわかってくれる』という信頼と甘えがあったからなんじゃないだろうか。
でなければ、『わかってくれなくても、彼女は自分を愛し続けていてくれる』という確信が。

イエスの魂は神のもの、あるいは神そのものだ。
だが、イエスは、神ではなく人間としての肉体を持っている。
その肉体には人間としての心が宿っていた――と考えることは、信仰に もとることだろうか。
救世主キリストの魂はいずれ天に帰る。
だが、汚れた人の世に残された人間としてのイエスを受け止め、抱きしめてくれるのは母をおいて他にはないとイエスは知っていたんじゃないだろうか。
そして、マリアもまた。

俺が、これこそ俺のマリアと直感したシュンは、ひどく不安定な人間だった。
正しき行ないと罪の間で、シュンの心はいつも揺れている。
自分が正しいと信じて為した行為が、実は罪なのではないかと疑い、あるいは罪であると確信して、シュンの心は頼りなく揺れるんだ。
マリアもそうだったんじゃないだろうか。
我が子を信じたい。
しかし、我が子は母に冷淡で、彼が語る言葉は一介の大工の妻にすぎないマリアには難解すぎ、到底理解し得るものではなかった。

シュンと聖母マリア。
揺れる二人の強さのよりどころは、ただ愛だけで、その愛ゆえに、二人は誰よりも強い。
それが俺のマリアで、シュンなんだ、きっと。

ああ、多分、俺は、シュンの姿形に目をとめたんじゃない。シュンの姿の美しさに惹かれたんじゃない。
30を過ぎた男の母の似姿に、シュンの造形は、どう考えても不自然にすぎる。
俺が惹かれたのは、この二人の心だ。
心だったんだ。
二人の視線のやりとり、互いに見詰め合う眼差しの中に存在する思い遣り、温かさ、切なさ。
そんなものたちが、俺の中で、二人を俺のピエタに結びつけた。






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