あれから60余年の時が過ぎた。
2年の月日をかけて彫った俺のピエタは、俺の名声を不動のものにしてくれた。
20代半ばの若造にすぎない俺を 誰もが絶賛し、涙を流して、俺のピエタの前に跪いた。

中には、したり顔で、『マリアが若すぎる』と批判する枢機卿もいたが、正直 俺はそいつを馬鹿だと思った。
聖職者や学者は 下手に聖書の知識があるから、マリアの歳なんて、そんな現世的なものを気にするんだ。
信じることしか知らない民衆のように、目の前にある命と心を見て、何かを感じ、それを自分の生きる力にすればいいのに。
ああいう奴は聖職者でありながら永遠に救われない種類の人間だと思う。

俺は、その馬鹿に、
「罪に甘んじる常の人間はいざ知らず、罪を超えたところにいる聖母はいつまでも若々しいのだ」
と答えてやった。
いちゃもんをつけてきた枢機卿を言い負かしてやろうとか、自分の作品を弁護しようとか、そんなつもりはさらさらなく、本心からの言葉だった。
俺は、そういう人間を知っていたから。

マリアの心、シュンの心は、こういう形をしているんだ。
この通りではないかもしれないが、だとしたら、それは俺の腕の未熟によるものだ。
技術が稚拙だという批判なら、俺はいくらでも受け付けるつもりだった。
俺にそんな批判をしてくる者は、ただの一人もいなかったが。

ピエタを完成させ、巨匠の仲間入りを果たした俺には、次から次へと仕事の注文が舞い込んできた。
『ダビデ』、『モーセ』、『バッカス』。
サン・ピエトロ大聖堂のドームの設計もしたし、ユリウス2世の墓廟も作った。
そして、俺にとっては悪夢でしかなかったシスティナ礼拝堂の天井画――。
どこまでも俺の仕事は続き、人々は 俺のことを『神のごときミケランジェロ』と呼んだ。
実際のところ、俺は、神どころか そのへんの小さな工房の親方並みの自由も与えられない、貧相で偏屈な一人の男にすぎなかったんだが。

短気で喧嘩っ早い上に、プライドが高くて おべんちゃらも言えない性格が災いして、俺は処世が壊滅的に下手だった。
人の心は読めるのに、自分の心は制御できない。
俺はもしかしたらマトモなオトナになり損なった人間だったのかもしれない。
彫刻や設計の才がなかったら、俺は狂人扱いされていただろう。
ユリウス2世、レオ10世、クレメンス7世、パウルス3世。
すべての法王と、俺は折り合いが悪かった。
にもかかわらず、奴等は俺の才能だけは認め、俺に次々に仕事をさせようとした。
そして、俺は、どれほど抵抗しても、結局 奴等の命令に従うしかなかった――奴等の権力に屈するしかなかった。

フィレンツェの輝かしい共和制も、俺は守りきれなかった。
神聖ローマ皇帝カール5世がアレッサンドロ・デ・メディチにフィレンツェ公の地位を与え、俺の故国フィレンツェ共和国は今ではメディチ家世襲のフィレンツェ公国になっている。
システィナ礼拝堂の天井画制作中には、視力を失った。
俺は芸術家なのに!

家庭や家族という安らぎを手にすることもなく、挫折と失望だけの人生。
己れの肉体と心で作り上げた作品たちへの自信だけが、俺の生を支えるものだった。

だが、俺は、自分の生を後悔しているわけではないし、人生をやり直したいとも思わない。
60余年前。
俺がまだ野心と意欲に燃え、可能性を信じ、自負心に満ち、若かった頃。
あの二人に出会った時、俺の人生は決したんだ。
あの二人に会いたくなかったなどとは、俺は絶対に思わない。
死んでも思わない。

あの時 出会ったあの二人が、本当に人間であったのであれば、彼等は既に死んでいるだろう。
いったい彼等は何者だったのか――。
人か。神の使いか。
もし神の使いだったのなら、その神は天なる神か、あるいは邪神か。
死ねば、それがわかるだろうか。
もう一度、彼等に会うことができるだろうか。

俺は、まもなく死ぬ。
88年――長すぎた生だったかもしれない。
幸福と呼べる時間は少なく、そのほとんどが、与えられる試練を乗り越えるために費やされた。
だが、人生というものは、誰の人生もそんなものなんだろう。多分。

華やかなギリシャ文化理想の美の具現を試みたボッティチェリは、修道士サヴォナローラに傾倒し、暗鬱な宗教画を濫造したあげく、おそらくは絶望の中で没した。
万能の天才レオナルドも異国の地で果てた。
俺のあとから出てきた世渡り上手のラファエロなどは、たった37歳の若さで死んでいった。
そして、ついに、俺に その番が回ってきたというわけだ。
今となっては懐かしいばかりの すべてのライバルたちの死のあとにやっと。


老いて盲いた身体で、俺は今 再びピエタを彫っている。
光を失ってなおさら 鮮やかに浮かびあがる、シュンの面影、眼差し、そして、涙――。
シュンのあの美しく清らかな姿は、今も俺の心に残っている。

あの面影を形にできるかどうかはわからない。
おそらく完成はしないだろう。
俺にはもう時間がない。
体力も失われた。
残っているのは、死を前にして いよいよ激しく燃え盛る、この強く熱い思いだけ。
その思いに衝き動かされ、俺は、俺のピエタを彫り続けている。
人間としての俺の肉体が 死を迎える その時まで、俺は俺のピエタを彫り続けるだろう。
そうして俺は、シュンのあの面影を抱いて神の御許に旅立つのだ。






Fine.






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