瞬のために星矢たちが言わずにいたことを 自分が瞬に知らせてしまうのは、彼等の気遣いを水泡に帰すことであり、瞬のためにもならない。 それを自分が瞬に知らせることは、とどのつまりは、自分が嘘つきの偽善者でいたくないというだけのこと。 それは ただの自己満足にすぎない。 その事実は氷河も自覚していた。 それでも、氷河は、事実を瞬に知らせずにはいられなかったのである。 これは、瞬のためではなく、自分のためにすること。 これは、瞬の前に、嘘つきの偽善者として立つくらいなら、正直な悪党として立っていたいという、自分の馬鹿げたプライドを守るためにすること。 そう自身に言い聞かせながら、氷河は、瞬が殺生谷から帰ってきた翌日、瞬の部屋に向かったのだった。 瞬はすっかり元気になっているようだったが、おそらくは『大事をとるように』という星矢の厳命に逆らえず、まだ自室のベッドに横になっていた。 氷河が室内に入ると、身体を起こす理由ができたと言わんばかりの勢いで、瞬は ベッドの上に跳ね起きてみせた。 「氷河のマーマの写真、沙織さんが ありかを見付けて、星矢と紫龍が取ってきてくれたんだって !? 僕は何もできなかったけど……氷河たちに心配かけただけだったけど、でもよかった。持つべきものは全知の女神と仲間たちだね!」 瞬は突然 嬉しそうに何を言い出したのか――。 氷河には、瞬が喜色満面で語った言葉の意味が全くわからなかった。 まもなく、それは、白鳥座の聖闘士が失くした(はずの)写真が、白鳥座の聖闘士の手許にある事実を不自然なことにしないために、星矢たちが捏造した作り話だと悟る。 星矢たちはもちろん、その作り話を、瞬の心を傷付けないために捏造したのだろうが、その捏造は白鳥座の聖闘士の悪意を隠蔽し、その立場を守ることにもつながる捏造である。 そこまでして――そんな欺瞞を犯してまで――彼等が守ろうとしているものを壊そうとしている自分を、氷河はひどく不幸な男だと思った。 「それは、星矢たちが おまえのためについた嘘だ。俺は殺生谷で あの写真を失くしたりはしなかった。あれはずっと俺の手許にあった。俺はおまえが嫌いだったから、おまえを傷付け苦しめてやりたくて、あんな嘘をついたんだ」 「……」 仲間の悪意に、瞬は全く気付いていなかったらしい。 瞬は、最初の数秒間は、氷河の告白の意味すら理解できていない顔をしていた。 理解してから、ゆっくりと瞳を見開く。 瞬がこれまで仲間の悪意に全く気付いていなかったのは、瞬に洞察力や想像力が欠けていたからではないことを、氷河は知っていた。 かといって、それは、瞬が善良すぎるからでもない。 それは、瞬の仲間たちのせいだった。 瞬を守り庇うために 大掛かりな嘘も捏造してしまう星矢たちのせいで、瞬は、その心を傷付けるものから 極力 遠ざけられてしまっていたのだ。 「どうして……? どうして僕は氷河に嫌われているの……?」 瞬の唇から、この場では 必然的といっていい質問が発せられる。 尋ねる瞬の声はかすれ、その顔は伏せられていた。 おそらく瞳は涙の膜で覆われていることだろう。 わざわざ確かめてみなくても、氷河にはそれがわかった。 「おまえが幸せな人間だから。幸福な人間が不幸な人間に憎まれるのは当然のことだろう」 瞬には それは当然のことではないだろう。 そんな理由で人に嫌われるなどという事態は、瞬には信じられないこと、理不尽なことでさえあるだろう。 そもそも今の瞬は 到底“幸せな人間”には見えない。 瞬は、俯き、震え、仲間に訳のわからないことを言われて戸惑い悲しんでさえいる。 他ならぬ瞬自身が、今の自分を幸福な人間だとは思っていないに違いなかった。 「どうして……? 僕はどうしたら……どうすれば氷河は……」 それでも――そんな理不尽なことを言われても――卑劣な仲間を責めようとしない瞬は、やはり“幸福な人間”なのだと、氷河は思わざるを得なかった。 そして、それが氷河の癇に障るのである。 「どうすれば? 簡単なことだ。俺に愛想を尽かしてくれればいい。おまえが俺の卑劣や冷酷に愛想を尽かしてくれれば、おまえの優しい振りも それが限界だったのだと、俺は得心できる。おまえの忍耐力がどれほどのものなのかを把握できて、俺は安心する。そして、俺は心の平穏を取り戻すんだ」 「優しい振り……?」 それまで、氷河の理不尽な言葉に俯いて耐えているだけだった瞬が、初めて僅かに顔をあげる。 氷河の推察通り、瞬の瞳は涙に濡れ、戸惑いに揺れていた。 「振りだろう。その“振り”が効を奏して、おまえは、誰からも好かれ、誰からも守られ、人の優しさの中で ぬくぬくと生きる幸福な人間でいられる。そして、幸福な人間特有の傲慢で、おまえには不幸な人間の気持ちがわからない。それは悪い事ではないし、それこそ 幸福なことの証なんだろうが、そんな人間が不幸な人間に好かれることまで望むのは 強欲というものだ。そして、おそらく、不可能なことだ。現に俺はおまえを好きになれない」 『なぜ幸福な人間は不幸な人間に嫌われなければならないのか』 瞬はそんなことを言って、理不尽で不幸な男を責めてくるのだろうと、氷河は思っていた。 そう問われたら、 『幸福な人間が傲慢なように、不幸な人間は卑屈だから』 とでも答えるつもりでいた。 それは 至って自然な――要する人情というものなのだと。 しかし、瞬は、氷河が想定していた質問を口にすることはしなかった。 代わりに、瞬は、 「氷河は なぜ不幸なの」 と、不幸な男に尋ねてきたのである。 思いがけない問いかけに、一瞬 氷河の思考が停止する。 「さあ……なぜだろうな」 氷河は、その理由を知らなかった。 |