「おまえはなんで、そんなガキみたいな真似をするんだよ! あれで すべてが丸く収まるはずだったのに! 俺たちは、口裏を合わせてほしいって沙織さんに頼み込むことまでしたんだぞ! よくも俺たちの苦労を無にしてくれたな!」 瞬に事実を知らせたことを報告し、知らせてしまったことへの詫びまで入れたというのに、星矢は、氷河の正直を真っ向から非難してきた。 まさか『大変よくできました』と褒めてもらえると思っていたわけでもなかったが、一般には美徳とされる“正直”な行為を子供の仕業と断じられ、氷河は少々むっとしてしまったのである。 「おまえこそ、なんで、そんなに瞬の心配ばかりするんだ。馬鹿正直が取りえのおまえが、あんな嘘までついて」 「瞬は仲間なんだ。心配するのは当然のことだろ。おまえだって――」 「俺は瞬を仲間だと思ったことはない」 いきり立つ星矢に、氷河は躊躇なく断言した。 “アテナの聖闘士”という括りで見れば、二人は確かに同じ集合体の一員同士かもしれなかったが、それはそれだけのこと――というのが、氷河の認識だったのである。 が、星矢の認識は、氷河のそれとは大いに違っていたようだった。 「仲間だろ! おまえ、一輝がアテナへの反逆者だった時にだって、瞬に優しくしてやってたじゃないか。一輝がいないのをいいことに、瞬にべったりくっついて、ここぞとばかりに恩を売ってるように、俺たちには見えてた。そんなおまえが、なんで急に瞬への態度を豹変させちまったんだよ! そこんとこがわからないから、俺たちは苛立つし、腹が立つんだよ!」 「そろそろ 本当のところを白状した方がいいぞ。星矢は、瞬のために、かなり我慢をしているからな。これ以上 訳のわからない状態が続くと、遠からず星矢は爆発する」 紫龍が、いったい誰を心配しているのかの判断の難しい助言を、氷河に垂れてくる。 紫龍がいったい誰を心配しているのか――それはおそらく、星矢でもなければ、瞬でもなく、もちろん白鳥座の聖闘士でもない。 彼が心配している対象は、それこそ まさに“仲間”というものなのだろう。 そう、氷河は思った。 「おまえが瞬への態度を変えたタイミングがタイミングだっただけに、それは一輝が生きて帰ってきたせいかとも思ったんだが、それも違うような気がしてな。おまえは一輝の生還を喜んでいたし――」 「……」 星矢を爆発させないために、紫龍は、彼自身が謎の解明に乗り出すことにしたようだった。 星矢を爆発させないために、氷河は虚心になってみることにしたのである。 瞬に自分の本心を知らせてしまった今となっては、あれこれ言い繕うことも無意味だろうと思ったから。 「……一輝の生還はきっかけにすぎない。瞬には もう俺の支えはいらないだろうと思っただけだ。いや、そんなものは瞬には最初から必要なかったことに、俺は気付いたんだ」 「一輝が帰ってくるまでは、おまえが瞬を支えてやっているつもりだったわけか? 一輝に 得意の鼻をへし折られて 拗ねたか」 「あいにく、俺の得意の鼻をへし折ってくれたのは貴様等だ」 「俺たちぃ―― !? 」 不可解で苛立ちが募るばかりの氷河と直接対峙し続けて ぶち切れる事態を回避すべく、氷河を詰問する役目を紫龍に任せようとしていた(らしい)星矢が、氷河のその言葉を聞いて、素っ頓狂な声をあげる。 その声の間の抜けた調子と響きに、氷河は忌々しげに顔を歪めることになった。 「一輝が帰ってきた時、俺は心から よかったと思ったんだ。おまえたちも喜んでいた。おまえたちに よかったなと言われて、瞬も嬉しそうにしていた――。愚かなことに、俺はあの時 初めて気付いたんだ。瞬には みんなが優しいんだということに。瞬を気遣っていたのは俺だけじゃなく、瞬に元気になってほしいと願っていたのも俺だけじゃなかった。俺は――俺だけが瞬を支えているつもりだったのに」 「そりゃ、瞬は仲間だし――」 仲間だから、それは当たりまえのことで、特別なことではない。 事もなげに そう言う星矢に、氷河は少しばかり虚ろな笑みを投げることになった。 「おまえ等には当たりまえで自然なことが、俺には全く面白くないことだった。面白くなくて――俺はおまえ等から離れた。そうしたら、瞬が そんな俺の側に来て、どうかしたのかと訊いてきた。俺は、あの時、瞬が俺を気に掛けてくれたことを喜べばよかったんだろう。多分。だが、俺はあの時、瞬がそんな心配顔で尋ねる相手は俺だけじゃないということに気付いたばかりで、到底 素直に喜べる心境じゃなかった。これがおまえ等でも、瞬は同じことを訊くんだろうと思った」 「俺は面白くないことがあったって、落ち込んだり拗ねたりしねーぞ」 「俺は、瞬に心配される前に、自分で解決する」 星矢と紫龍が、氷河の推論の穴を指摘する。 が、それは、氷河にとっては ほぼ無意味な指摘だった。 ともかく、それが始まりだったのだ。 そして、瞬の表情から憂いの色が消え、氷河の豹変のきっかけを運んできた瞬の兄が城戸邸を出ていったあとも、氷河の苛立ちは消えることなく、彼の中に残った。 「俺は、それまで瞬しか見ていなかった。瞬の周囲にまで視界を広げてみると、瞬に優しいのは俺だけではないことに気付いた。俺だけじゃなく――みんなが瞬には優しいんだ。俺が瞬に冷たくしても、俺が冷たくする側から、おまえらが余計なことを言って瞬を慰め励ますから、瞬はすぐに立ち直ってしまう。俺に冷たくされることより、おまえらに手を差し延べられることの方が、瞬には より重要なことで、俺が瞬に何をしようと――優しくしようと冷たくしようと、それは瞬には何の意味もないことなんだ」 「では、瞬は、意味のないことのために、ずっと心を痛めていたことになるな」 紫龍が ひそりと、氷河の考えの誤りに言及する。 星矢は、紫龍よりはっきりと、氷河の考えがおかしいことを責めてきた。 「瞬はみんなに優しい。だから、みんなが瞬に優しくする。滅茶苦茶 当たりまえのことなんだから、おまえもそれくらい我慢しろよ!」 「……」 星矢は事もなげに そう言うが、その『当たりまえのこと』が、氷河には我慢ならないことだったのだ。 「ああ、それから、一応 言っとくけど。俺たちが瞬に優しくして、おまえに優しくしなかったのは、おまえには瞬が優しくしてやるから、俺たちは手を出さないでいる方がおまえも嬉しいだろうと思ってたからだぞ。おまえが瞬に構われて、溶けたバターみたいに おめでたい顔してたから、俺たちは水を差さない方がいいだろうと思っただけ。言ってみれば、思い遣りってやつだ」 「それは初耳だが――おまえ等が俺に優しくないことなんか、俺にはどうでもいいことだ」 「ま、そりゃそうだ」 星矢は、妙なところで 物わかりがいい。 あいにく、今の氷河は、星矢の賢明に苦笑する余裕を持ち合わせていなかったが。 「瞬は誰にでも優しい。まるで嫌いな人間なんかいないように、誰にでも優しい。瞬には誰も同じなんだ。俺も おまえ等も 他の奴等も、皆 同じ。みんなに優しく、すべてを愛する、実に立派な平等博愛主義。だから、俺は、一人くらい 瞬に嫌われている人間がいてもいいだろうと思っただけだ。その方が、瞬にも人間味が加わるというものだろう。誰に対しても皆同じなんて、感情も持たないロボットと大差ない。一人くらい、瞬に嫌われ、瞬を嫌っている特別な人間がいても――」 「氷河……おまえ、なに言ってんだ?」 ほんの30秒前には異様に物わかりのよかった星矢の顔が、急に 訳のわかっていない人間のそれに変わる。 自分の発言の理不尽を承知していた氷河は、星矢が“訳のわからない顔”になるのも当然のことと思い、そのまま言葉を続けた。 「わかっている。俺が我儘で馬鹿なんだ。瞬が優しい いい子でいようとするのは、守ってくれる親のいない子供が身につけた処世術だ。非難すべきことじゃない。それで瞬がみんなに好かれるのも、咎められるようなことじゃない。幸せな人間になら冷たくしてもいいと考える俺の方が間違っている。だが、どうにもならないんだ。幸福な人間を不快に感じるのは、不幸な人間の 瞬を傷付けないための星矢の画策を無にしてしまったことに 少なからず責任を感じて、氷河は虚心に自分の真情を仲間たちの前で吐露したのである。 基本的に 人のいい星矢は それで情状酌量に及んでくれるだろうと、期待していたわけではなかったが、結局はそうなるだろうと、氷河は思ってもいた。 だが、星矢は、不幸な人間の性に苦悩する仲間を哀れむどころか、“訳のわからない顔”を更に“鳩が豆鉄砲を食らったような顔”にグレードアップさせただけだった。 そして、彼らしくなく歯切れの悪い口調で、 「いや、おまえは……おまえは、ほんとに、全然 何にも全く わかってない。――と、思うぞ」 と言った。 「なに?」 その気になれば、すべてを無視し沈黙に徹する卑怯者になることもできた男が 潔く自らの非を認めているというのに、『ほんとに、全然 何にも全く わかってない』とは何事だろう。 星矢はお人よしではあるが馬鹿ではないはず。 そう思いながら、氷河は、理解の遅い仲間を軽く睨むことになった。 「あー……」 ほとんど睥睨に近い氷河の視線の先で、星矢が困ったように頭を掻く。 その段になって氷河は、“鳩が豆鉄砲を食らったような顔”をしているのが星矢だけではないことに気付いたのである。 つまりは、紫龍も、星矢のすぐ横に 星矢と大差ない表情を浮かべた顔を並べていたのだ。 星矢は、そんな紫龍を一瞬 横目に見てから 溜め息をひとつ洩らし、続けて 長嘆のような言葉を吐き出してきた。 「おまえ、それはさ――おまえは瞬が好きなんだよ。友だちや仲間の“好き”じゃなく、特別な“好き”。おまえは、おまえが好きな瞬を、自分が独り占めできなくて苛立ってるだけ。みんなが瞬に優しいのに腹が立つのはさ、自分だけが瞬に好かれて、自分だけが瞬に優しくしたいのに、他人に割り込まれて むかついてるだけだ」 「……」 “鳩が豆鉄砲を食らったような顔”になるのは、今度は氷河の番だった。 否、氷河はむしろ、“豆鉄砲を食らったことにさえ気付いていない鳩のような顔”になった。 『太陽は北から昇り、南に沈む』と言っているような星矢の主張に、あっけにとられる。 「おまえは何を馬鹿なことを言っているんだ。そんなはずがないだろう。あんな様子をしていても、瞬は男だ」 「ほんとにわかってないのかよ? おまえは、その、男の瞬が好きなの」 氷河の至って論理的かつ常識的な反駁――と、氷河は思っていた――を、星矢が真っ向から、実にあっさり否定する。 星矢の声は、ますます嘆息じみた響きを帯びてきていた。 「どっかココロを病んでるってなら話は別だろうけどさ、普通の人間は、友だちに友だちがたくさんいても、それで苛立ったりしねーの。友だちってのは、共有できるものだろ。他人と共有できない友だちって、それはもう恋だろ。自分だけが誰かの特別でいたいってのは、恋っていうんだ。辞書にはそう書いてある。おまえは瞬に惚れてんの」 星矢が そんな単語を辞書で調べたことがあるとは思えなかったが、彼は確信に満ちた様子で そう断言した。 「完全に想定外だ。まさか、自覚していなかったとは――」 紫龍までが、すっかり脱力したような口調で そうぼやく。 まるで神の奇跡に遭遇して感動に打ち震えているユダヤ人のように――紫龍は、氷河の無自覚に、見事に呆れ果てていた。 第三者である二人の人間に口を揃えて『そうだ』と言われ、氷河は、これまでの己れの言動を顧みてみたのである。 その結果、氷河は――氷河も――『そうだ』と認めないわけにはいかなくなった。 そして、気付いていなかったのは自分だけだったらしいという事実、星矢たちの意識では、それは わざわざ指摘するまでもない自明のことだったという事実にも、彼は気付いた。 「自分の気持ちに気付いていないだけだったなら、まだ救われる。だが、おまえは、親や恋人の愛情を試そうとしている子供や馬鹿者と同じだ。おまえが自覚していたかどうかはともかく――おまえは、瞬に冷たくして、瞬がどこまで我慢してくれるのかを試そうとしていた。愛されることだけを期待して、相手の愛情を量ろうとする子供と同じ。そういうことはな、きっと瞬は我慢してくれると期待しているからできることだ。そういう奴に限って、その期待が裏切られると逆恨みをする。そういう卑劣は、相手が自分と同じ人間だということを無視しているからできることだ。おまえは、自分が最低の人間だということを自覚した方がいい」 「最低も最低。姑息なアホガキみたいな我儘言って、そのあげく、瞬をあんな目に合わせやがってよ! 聖闘士ったって不死身じゃない。小宇宙ってのは、半分以上は気力や精神力から生まれるもんだろ。おまえだって聖闘士なんだから、感じ取れるだろ。瞬の心や小宇宙は弱っている。みんな、おまえのせいだぞ。この大馬鹿間抜け野郎!」 瞬に対する氷河の冷たい態度が 彼の“馬鹿さ”ゆえだったことを知って、紫龍と星矢は言いたい放題である。 しかし、氷河には、『自分が馬鹿だった』という情報は、それこそ寝耳に水のことで、すぐには受け入れることのできない情報だったのである。 そんな氷河に、星矢が 「少し 頭冷やせよ。自分が何をすべきなのかを よく考えて、そんで、自分でどうにかしろ。俺たちは、瞬には手を貸すけど、おまえみたいな馬鹿には手は貸さない。自分でどうにかしろよ!」 「俺は、瞬にそんな――」 悪あがきを続け、潔く事実を認めようとしない氷河に、紫龍は業を煮やしたらしい。 星矢に 「今 瞬が死んだら自分がどうなるか考えてみろ。後味の悪い思いをするだけで済むかどうか」 「……」 紫龍に考えろと言われたことを、氷河は真剣に素直に考えてみたのである。 答えは、10秒とかからぬうちに、氷河の許に降ってきた。 「瞬が死んだら……俺は生きていることが楽しくなくなって――生きていたくなくなる……」 「そうだよ!」 やっと自分の気持ちを自覚したかというように、星矢が氷河の呟きに頷く。 だが、自分の気持ちが明瞭明白になることと、打開策を見付けられない事態が解決することは、氷河の中では 全く結びつくものではなかった。 自分の気持ちがわかったからこそ一層、氷河は八方塞がりの状況に追い込まれてしまったのである。 「しかし、俺は、瞬が誰にでも優しいのには耐えられない。俺にだけ優しくして、他の奴等には冷たくしてほしいんだ。そうしたら、俺も……俺は幸福な男になれる」 「おまえ、それは我儘が過ぎるってもんだろ」 我儘な男が恋をしているのか、恋をしているから我儘な男になるのか――自分の本当の気持ちに気付いても、あくまで自分だけの望みにこだわる氷河を、星矢は 呆れ果てたように たしなめた。 「あのさ、瞬はさ、俺好みのお茶の開発に挑戦してくれって言っても、俺の頼みをきいてくれねーの。おまえに冷たくされて落ち込んでるから、何か気を紛らす目的を与えてみようと思って、水を向けてみたんだけど、瞬は『そのうちにね』って、気のない顔して寂しそうに笑うだけだったんだぜ」 星矢が、馬鹿で間抜けな男のために そう言ってくれているのだということは、氷河にもわかっていた。 わかっていたからこそ、彼は真剣に悩んだのである。 その程度の“特別”で、自分は我慢できるのだろうか――と。 『我慢できそうにない』という答えに氷河が辿り着くのに、1秒以上の時間はかからなかった。 |