夏の匂いを含む光の粒子が、廊下の窓の向こうにある午後の庭で、声のない笑い声を響かせながら色とりどりの花たちの上で撥ねている。 その明るく楽しげな陽光の様子に、心を持たない自然の光の方が 自分よりよほど恋らしい恋をしているようだと、氷河は感じることになった。 星矢には『自分でどうにかしろ』と言われたが、確かにこれは“自分でどうにか”しなければならない事態だと思う。 そう思ったからこそ、氷河は瞬の部屋に向かったのである。 恋を自覚したばかりの若い男にしては、重い心を胸に抱えて。 瞬は、さすがに今日はベッドを出ていた。 大事をとるよう、星矢に言われ、自分自身のためというより仲間を安心させるために、昨日は大人しくベッドの中にいた瞬。 その瞬が、今日は、本当はベッドで横になっていたいのに、あえてベッドの外に出ているようだった。 おそらくは、一度 横になってしまったら、起き上がることができなくなりそうな自分を、瞬は懸念しているのだろう。 ノックをして部屋のドアを開けたのが、昨日 瞬に『憎まれるのが当然』『好きになれない』と冷たく放言してのけた男であることを、瞬は意外に思ったらしい。 また同じ話を繰り返されることには耐えられないと言いたげに、悲しげに、瞬は氷河に苦しい視線を投げてきた。 仲間に怯えてさえいるような瞬のその様子を見て、氷河の胸は ひどく痛んだのである。 恋を自覚したばかりだというのに、そして、自分の恋人は やはり可愛らしく魅力的だと感じるのに、瞬の前で、氷河の胸はときめくことさえできなかった。 この善良で心優しい仲間を、己れの愚かで心ない振舞いで傷付けてしまったのだと思うと、氷河は昨日の自分の言動を悔やんでも悔やみきれなかった。 それ以上に、瞬に何と言って詫びればいいのかが思いつかない。 この瞬に、『俺は、自分がおまえに惚れていることを、昨日まで全く自覚していなかったんだ』などという間抜けな言葉を、どんな顔をして言えばいいのか――言えるのか。 そんな馬鹿げたことで瞬の心を傷付けてしまった事実を瞬に告げて、それで瞬の心は少しでも癒されるのか。 むしろ瞬は、そんな馬鹿な男に振りまわされてしまった自分に、かえって傷心を深めるだけなのではないのか――。 考えれば考えるほど、事実を瞬に告げるための適切な言葉を見付けられず――結局、氷河は考えることをやめてしまったのだった。 前置きも挨拶も説明も謝罪も口にせずに――できずに――氷河は、現在の自分が持つ事実だけを、瞬に告げた。 ほとんど命令口調で。 「俺はおまえが好きだ。だから、おまえが俺以外の誰かに優しいのも、俺以外の奴等がおまえに親切にするのも気に入らない。おまえが好きだから、俺は、おまえに他の雑魚共と一緒に十把一絡げで扱われるのも不愉快だ。だから、俺はおまえに冷たくする。我慢しろ」 「あ……」 瞬は、自分が何を言われたのか、全く理解できなかったようだった。 そういう顔をした。 それはそうだろう。 昨日は『嫌い』で、今日は『好き』。 昨日が今日に変わるまでに、『嫌い』が『好き』に変わるきっかけになるような出来事も、二人の間には起こっていない。 何もなかったのに 好悪が180度変わる男の言葉を、普通の人間に理解できるわけがない。 というより、瞬は、そんな人間の存在を認めることができなかったようだった。 そんな瞬の前で、氷河はといえば、ただ無表情でいるしかなかったのである。 笑うことも泣くことも怒ることもできない。 というより、氷河は、自身の不明と愚昧を嘲笑い、自身の不明と愚昧に泣き、自身の不明と愚昧に憤っていたからこそ、無表情でいるしかなかったのだ。 その3つの行為を同時に実行した結果、氷河の顔は無表情という表情を浮かべることになってしまったのである。 「僕は……氷河に嫌われているんじゃないの?」 全く理解できないこと――無理に理解しようとしなくてもいいこと――を、心優しい瞬は理解しようと思ってくれたらしい。 瞬に問われたことに答えるくらいのことは、かろうじて今の氷河にもできた。 「俺はおまえが好きだ。おまえだけが好きだ。おまえと違って、俺が好きなのは おまえだけだ」 「僕が氷河以外の人に優しくしなかったら、氷河は僕に冷たくしないでくれるようになるの?」 「おまえが俺だけに優しければいいと思う」 「氷河にだけ?」 「無理だろう。おまえはそんなことはできない奴だ。だから、俺に冷たくされても我慢しろ。俺の願いを叶えてくれない おまえに、俺は優しくできない。そうしたいと思ってもできないんだ」 「……」 瞬が、やはり理解できない――という顔をする。 瞬には理解できないだろうと、氷河は思った。 好きだから冷たくするなどという ひねくれた思考が、 しかし、それが氷河の本音だったのである。 特別に愛してもらえないなら、特別に嫌われていたいというのが。 子供じみた我儘とわかっていても、理性理屈からではなく感情から生まれる その願望を、どうしても氷河は軌道修正できなかった。 「話はそれだけだ」 瞬に理解してもらえなくても、瞬は理解しようと努めてくれた。 それだけでも、馬鹿で間抜けな男には過分な厚意である。 そう自分に言いきかせて、氷河は踵を返した。 「氷河……!」 それまで ひたすら“理解不能”の 瞬の部屋を出るためにドアに手をかけたまま、氷河はその場に立ち止まった。 そして、ゆっくりと、もう一度 瞬の方を振り返る。 振り返った愚かな男の視線と表情から、瞬はどんな感情を読み取ることもできないのだろう――と、氷河は察した。 あるいは、それは ひどく冷たいものに見えているのかもしれない――とも、彼は思った。 表層に出すべき感情が何もないからではなく、あまりに多くの感情が入り乱れているせいで、氷河の視線と表情は そういうものになってしまっていたのだ。 実際、瞬は、氷河の冷たい無表情に一瞬 気後れしたような様子を見せた。 が、やがて思い切ったように口を開く。 「あの……あのね。僕は、氷河が好きだったんだよ。兄さんは、氷河の大切なお母さんのことで、氷河を傷付けた。氷河は僕を憎んで当然だったのに、兄さんがいなかった時、氷河は僕に優しくしてくれて、支えてくれた。僕は氷河が大好きなの。嫌われてるんだって思っているのは つらかった。氷河に冷たくされるのは、悲しかった。僕は氷河が大好きだったから」 訳のわからないことを一方的にまくしたてる男に腹を立てて、あるいは対抗して、瞬は――瞬もまた――自分の言いたいこと(だけ)を訴えることにしたのかと、最初 氷河は思ったのである。 ならば、自分は、それが恨み言でも難詰でも、瞬の訴えを真正面から受けとめなければならない――と。 窓際に置かれた籐椅子に掛けていた瞬が、膝の上で小さな2つの拳を作る。 その小さな2つの手が、懸命に つらさと苦しさに耐えているように見えて、氷河は ひどく悲しい気持ちになった。 だが、氷河はまもなく、瞬の拳が つらさに耐えるために作られたものではなく、自身に決意を促すために作られたものだったことを 知ることになった。 瞬は、瞬が理解しようとした氷河の訳のわからない言葉を、完全にではないにしても、半分ほどは理解してくれていたことにも、やがて氷河は気付いた。 「氷河。ここに座って」 掛けていた椅子から立ち上がり、瞬が氷河に椅子に掛けるよう 手で示す。 瞬の求めに応じないことなど思いもよらず、氷河は瞬の指示に従った。 自分より目線が低くなった氷河の前で、瞬が 一度 ゆっくりと深呼吸をする。 その深呼吸を終えた直後、氷河は思いがけない事態に襲われていた。 それは全く意想外、まさに青天の霹靂と言っていい事態だった。 あろうことか、氷河の唇に瞬の唇がそっと触れてきたのだ。 「……!」 ほんの一瞬、触れるだけのキス。 だが、それは、氷河の全身を硬直させ、彼の呼吸を止めるのに十分な威力を持った不意打ちだった。 言葉もなく、瞳を見開いた氷河に、瞬が困ったような目を向けてくる。 そして、身の置き所をなくしたような仕草で、瞬は すぐに その視線を氷河の上から逸らしてしまった。 「僕は、他の人を無視したり素っ気なくしたりはできない。星矢たちは 僕の命より大切な仲間で、兄さんは僕の大切な兄さんで、沙織さんは僕の大切な女神で、人間は 僕の大切な 守るべきものだ。人間は、僕が生きていくための目的で理由だから、絶対に無視なんかできない。でも、こういうことは氷河にしかしない。それじゃだめ?」 「――」 殺人的なまでに可愛らしい この生き物を創ったのは いったい誰なのだと、氷河は思ったのである。 もし、人に神と呼ばれるものが瞬を創ったというのなら、自分は その神に未来永劫 帰依し続けるだろうとも、氷河は思った。 嘲笑と嘆きと怒りでできていた氷河の無表情に、歓喜と希望という2つの要素が加わる。 その2つは、氷河から 身体を自由に動かす力を奪い、氷河の喉をからからに干上がらせることで、声までも奪ってしまったのだった。 それは ほんの2、3秒だったのか、それとも、2、3分間の長きに及んでいたのか――長いのか短いのか 判別できない時間が過ぎ、ともかく何とか声を発することができるようになってから、氷河はかすれた声で、瞬に、 「――駄目じゃない」 と答えた。 答えることができたのである。幸運にも。 「……よかった」 瞬が、ほっとしたように小さな息を洩らす。 氷河自身には動かせないはずの手が、勝手に意思を持ち、瞬の吐息に誘われるように瞬の肩にのびていくのを、氷河には止めることができなかった。 手が、勝手に瞬の身体を抱きしめる。 幸いなことに、自分の意思では動かせないはずの氷河の胸と腕は、瞬の身体の温もりを感じることができた。 小さな温もりの持つ力に、そして、氷河は圧倒されることになったのである。 瞬の身体を抱きしめていることが、ぞくぞくするほど心地良い。 この幸運と幸福と歓喜を 愚かな男に垂れてくれたのが神だというのなら、感謝の言葉を連ねて神への無限の信仰を誓いたいとさえ、氷河は思った。 だというのに、なぜか誓いの対象である神の姿が見えない。 氷河は、だから、瞬への恋に永遠に帰依することを、瞬に誓うことにしたのだった。 |