瞬の“特別”になりたかった。
なれないなら、瞬など消えてしまえとすら――今となっては、その心の愚かさ幼さに呆れ果てるばかりだったが――思った。
誰にでも優しい瞬に向かう苛立ちを 仲間に対する独占欲によって生じるものだと思っていたから、氷河は、瞬に嫌われ憎まれる唯一の特別な人間になること以外に、事態の解決策を思いつかなかったのである。
だが、それが“恋”なら、こういう解決策があるのだ。
目からウロコが落ちるとは こういうことを言うのだろうと、氷河は思い、そして彼は再び豹変した。
彼は、瞬に与えられた“特権”を得意げに星矢たちに語り、そして、以前のように瞬のいれたお茶を飲み干すようになったのである。

自分勝手な思い込みと愚昧で 散々 瞬を振りまわし傷付けた男が、どんな罰も受けることなく、再び瞬の好意を取り戻してしまったことに、本音を言えば、星矢たちは理不尽を感じた。
だが、氷河のために嬉しそうに お茶をいれるようになった瞬の様子を見せられて、結局 彼等は氷河に何を言うこともできなかったのである。
彼等が願い求めていたものは、仲間内に流れる気まずい空気と ぎこちなさの消滅で、その願いは確かに叶ったのだから。
翳りのない瞬の笑顔に出合って、馬鹿げた騒ぎも これで一件落着と、星矢たちは やっと安堵の胸を撫でおろすことができたのである。
そのはずだったのだが――。

城戸邸に戻ったはずの平和、瞬が取り戻したはずの笑顔は、それから さほどの時間が経たないうちに、またしても、城戸邸と瞬の上から消え去ってしまったのである。
他ならぬ、某白鳥座の聖闘士のせいで。

つまり、氷河は、瞬に特権を与えられた 僅か1週間後、またしても瞬のいれるお茶に口をつけなくなり、瞬に冷たい態度をとり始めたのだ。
瞬の笑顔は再び曇り始め、星矢は、氷河の三たびの豹変に激怒することになったのである。

「なんで、おまえは瞬に あんなに冷たくするんだよ! 瞬がおまえに何したっていうんだよ!」
当然のことながら、悪いのは氷河だと決めつけて、星矢は またしても愚かな振舞いに及び始めた仲間を怒鳴りつけた。
氷河は、だが、星矢の怒声に動じた様子も見せなかった。
怒髪天を衝いている星矢に、氷河が、極めて落ち着いた態度で、自らの行動の訳を説明してくる。
それは、あくまでも どこまでも“説明”であり、決して弁解ではなかった。
氷河の口調は、そういう口調だった。

「俺は学習したんだ。俺が瞬に冷たくすると、俺に冷たくされないために、瞬は俺に特権を与えてくれるということを」
「特権? ああ、おまえには過ぎた特権をな! おまえは、それだけじゃ不満なのかよ !? 」
それでもまだ足りないというのか、この上 まだ欲しいものがあるのか、欲しいものがあるというのなら、それは何なのか。
言えるものなら言ってみろと、噛みつくような勢いで、星矢は氷河を難詰したのである。
呆れたことに、氷河には本当に この上まだ欲しいものがあったらしい。
氷河は、星矢に問われたことに、自分の強欲を恥じるふうもなく、実に堂々と答えてきたのである。
「キスだけでは、俺はもう我慢できない」
――と。

「もう……って、おまえが瞬とそういうことになって、まだ一週間しか――」
言いかけた言葉を、星矢が途中で途切らせる。
星矢から声と言葉を奪ったものは、“途轍もなく嫌な予感”だった。
その“嫌な予感”が、星矢の中で、光速で確信に変わる。
「おまえ、まさか、瞬と寝たくて、瞬に冷たくしてんのかーっ !? 」

まさか そんなことがあるはずがない。
そんなことはあってはならない。
頼むから否定してくれと、氷河を怒声で問い質しながら、星矢は心から願っていた。
だが、氷河は期待を裏切る男である。
あるいは、見事なまでに期待に応える男である。
彼は、臆面もなく、星矢の“嫌な予感”を肯定してみせたのだった。

「瞬が次に俺に差し出すのは、それになるだろう。目に見えるようだ。あの大きな目に涙を浮かべて、氷河としか しないから――と言って、俺にすがってくる瞬の姿が」
そう言って、氷河が、凪いだ北の海に映る月の光のように冷たく、そして、ひどく楽しそうに笑う。
絶対零度もかくやといわんばかりの、氷河のこの残酷、氷河のこの冷酷が、恋の情熱に衝き動かされて生じたものなのだと思うと、星矢には もはや言うべき言葉もなかった。

絶句した星矢を気の毒そうに見やりながら、紫龍が 慰めにならない彼の予測を、他人事のように口にする。
「自分と現実を正しく認められるようになった恋する男というものは、実にたちの悪い存在だな。瞬には 到底 太刀打ちできないだろう」
「こんな姑息な手にのせられて、瞬が氷河と寝るってのかよ!」
「おそらく一両日中に」
「……」

現実を残酷なまでに冷静に見詰めることができ、受け入れることができるという点では、紫龍も氷河に引けをとらない男なのかもしれない。
しかし、星矢は、紫龍のように落ち着いてはいられなかった。
氷河がいる場所で、氷河に聞こえる大きさの声で、紫龍を怒鳴りつける。
「どうにかできないのかよ!」
「できないだろうな。今の瞬は“恋のことわり”に支配されている。あの平等主義者の瞬が特権を与えるくらい、瞬は氷河を好きでいるんだ。氷河には気をつけろと、俺たちが忠告したところで、瞬が素直に聞き入れるとは思えない」
「……」

紫龍の言う通りである。
そんなことを言われたら、なぜか氷河が好きでならないらしい瞬は、仲間にそんなことを言われることを悲しむに違いなかった。
紫龍のその言には 星矢も賛同しないわけにはいかず――氷河の姑息なやり方を知らされても、結局 星矢にできることは、諦観でできた溜め息を洩らすことだけだったのである。

「……氷河が馬鹿な子供でいてくれた方が、瞬のためにはずっとよかったんじゃないか」
「それは否定しないが……だが、まあ、子供は大人になるし、馬鹿は利口になるものだ。それは自然のことわりで、誰にも妨げられない」
「……」
氷河は、“利口な大人”というより“ずるい大人”になっているような気もしたが、子供が大人になるという現象は、確かに、自然にも妨げられない自然の理というものだろう。

星矢は、絶望的な気分になって、天を――正確には、ラウンジの天井を――仰いだのである。
そうして、誰にも何にも妨げられない“自然の理”が、せめて瞬を幸福にするものであるようにと祈る。
今の瞬を支配している“恋の理”になら、それができるかもしれない。
希望の聖闘士にできることは、いつの時も、希望にすがることだけだった。






Fin.






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