ぴくりと、氷河のこめかみが引きつる。
問題の美少女が誰なのかということは、もはや聞かずもがな。
星矢と紫龍は もちろん、言う必要のないことを あえて口にする愚を犯すようなことはしなかった。
白鳥座の聖闘士の怒りを静める力を持つ者は この場には ただ一人しかいないこと、そして、それは瞬ではないということを、彼等は知っていた。
その力を持つ(と思われる)彼等の女神が、真打ち登場とばかりに口を開く。
「さっき、沢山さん――お母様の方よ――がこちらに見えたの。病気で気落ちしている息子さんを力づけるために、瞬に息子さんのお友だちになってほしいと頼みに」
「どんな病気持ちなのかはしらないが、成人した男が母親に恋の橋渡しをしてもらうなんて、軟弱の極みだ。恋の告白くらい自分の口で堂々と――」
「おまえ、そんなこと偉そうに人に言える立場か?」

星矢の指摘を受けて、氷河が口をつぐむ。
星矢は何を言っているのかと訝った瞬が 仲間たちの上に視線を巡らせるのに 最も慌てることになったのは、『恋の告白くらい自分の口で堂々と』言えずにいる白鳥座の聖闘士だったろう。
彼を窮地から救おうとする意図があったのかどうかは定かではないが、瞬の疑念の視線を遮るようにして、沙織は沢山家の事情説明を続けた。

「誤解のないよう言っておくけど、沢山さんの息子さんの病気は鬱病とか引きこもりとか、そういう種類のものではないわよ。沢山さんの息子さんの病気は 結節性多発動脈炎。全身の血管が異常をきたす病気よ。原因不明で、身体のどの部位の血管が炎症を起こすかによって症状も異なるから、治療法も あってないようなもの。……いいえ、治療法はないと言っていいわね。沢山さんの息子さんは、今は 心臓の付近がトラブルを起こしているらしくて――画期的な治療法が発見されない限り、もって1年。万一、脳や脊髄の血管に病が転移したら――いえ、良くないことは考えないようにしましょう」
「……」
瞬を見初めた男の病は まさに、『誤解のないように』と沙織が釘を刺したそれだろうと決めつけていた氷河は、沙織が口にした病気の名に さすがに気まずさのようなものを覚えることになった。
『結節性多発動脈炎』なる病名は、氷河も初めて聞くものだったが、その病の詳細を知らなくても、『もって1年』の意味はわかる。

「別に、お付き合いしてほしいとか、そういうのではないのよ。友人として、話し相手として、時々 家を訪ねてほしいというだけ」
「病を武器に、瞬に近付こうという魂胆か」
発言の内容は攻撃的だが、口調は攻撃的ではなかった。
氷河が発した言葉にではなく、低い呻きのような声の響きに、沙織は頷いた。
「沢山さんには、他にご親戚はいらっしゃらないそうなの。母ひとり子ひとり、沢山さんは 女手ひとつで懸命に息子さんを育ててきた。息子さんの将来のためにと、寂しい一人暮らしにも耐えていた。その息子さんを失うことになるかもしれない母親の気持ち、氷河、あなたにならわかるでしょう?」

人の母親になったことはないので、氷河には、息子を失いかけている母親の気持ちはわからなかった。
だが、そういう境遇を余儀なくされた母子の気持ち、母と子の悲哀と苦しみは、氷河にもわからないではない。
母を失う子の悲嘆と、子を失う母の悲嘆。
そのどちらが より大きく深く激しいものなのかは 氷河にはわからなかったし、考えたくもなかったが、それが母にとっても子にとっても 大変な悲痛であるのは疑いようのない事実。
そして、沙織は、死に行く息子のためにではなく、残される哀しい母親のために 怒りを抑えろと、白鳥座の聖闘士に言っている。
氷河は、自分の怒りを抑えるために、音がするほど強く奥歯を噛みしめることになった。
その怒りが、母に恋の橋渡しを頼むようなことをしている息子に対するものなのか、母子の上に降りかかった残酷な運命に対するものなのかは、彼自身にもわかっていなかったのだが。

「軟弱息子は自分の病気がどういうものなのか知っているのか」
「知らせてはいないけれど、察しているかもしれないと おっしゃっていたわ」
「……」
氷河が何事かを考え込むように黙り込む。
静かになった氷河に、沙織は、まるで不治の病を得た息子を見詰める母親のような眼差しを向けた。
「友人として時々 家を訪ねてほしいと、沢山さんのお願いはそれだけなのよ。なのに、瞬は無理だというの」
「なぜ」
それは、瞬なら、頼まれなくても放っておけないようなシチュエーションである。
瞬が気の毒な母親の要請を拒む理由が、氷河には思いつかなかった。
が、瞬には瞬なりの 逡巡する理由というものがあったらしい。

「だ……だって……そんなお二人の前で、何も知らない振りして笑ってるなんて、僕には無理だよ」
そう訴える側から、瞬の瞳には涙がにじんでしまっている。
瞬に沢山家訪問をためらわせる理由は、要するに彼の同情心の篤さ――にあるらしかった。
瞬はすっかり沢山家の母子に同情し――気軽に『これは人助け』と割り切れないところまで同情しきってしまっているのだ。

「笑えっていうんじゃなく、普通にしてればいいだけだって」
「僕だって、力になれるのなら そうしたいよ! でも、僕――病気のこと知らせないように気丈に振舞ってるお母さんの横で 僕が泣き出したりしたら、お母さんの懸命の努力を無にすることになるでしょう!」
人の痛みに全く共感できない人間というのも問題だが、人の痛みに敏感すぎる人間というのも困りものである。
人に同情している自分を善人と信じ、そんな自分に酔うことができない分、瞬の同情心は厄介なものだった。

「力にはなりたいのか……。それはそうだろうな」
瞬の逡巡の理由に得心したように、紫龍が浅く頷く。
そうしてから彼は、瞬と氷河の上に順に視線を投げることをした。
「沙織さんの言う通り、氷河は適役かもしれないな。氷河は自分の心を隠すのには慣れているし」
「え?」
「そうそう。氷河に教えてもらえ。それで万事解決じゃん」
「とにかく、明日、瞬を連れて午後のお茶にお邪魔させていただくと、私は沢山さんに約束したの。ご子息を喜ばせてやれるとおっしゃって、お母様は涙ぐんで何度もお礼を言って お帰りになったわ。今更、やっぱり行けなくなりましたなんて、私にはとても言えません。氷河。あなた、まさか、私の立場をなくすようなことをしたりはしないわね?」

白鳥座の聖闘士が協力しさえすれば 瞬の望みの実現を妨げるものはなくなり、また、そうすることがアテナの聖闘士の当然の義務と言わんばかりの、女神と仲間たちの態度。
氷河は、しかし、そう簡単に彼等の主張に折れるわけにはいかなかったのである。
なにしろ、この騒ぎは、沢山家の病気の息子が 彼の母の庭を毎日眺めている“美少女”に好意を抱いたことに端を発しているのだ。

「その軟弱息子は、瞬を女だと思っているんだろう?」
「でしょうね」
「心を隠すより、男だということがばれないように特訓するのが先決なんじゃないか」
「その点は大丈夫よ。服を脱ぐわけじゃないんだから」
「脱がれてたまるかっ!」
少し大人しくなりかけていた氷河が また、そのまなじりをつりあげる。
そんな氷河を見て深い溜め息をついたのは、あろうことか、直情径行と天衣無縫を身上にしている天馬座の聖闘士その人だった。

「許して、協力してやれよ。あのお袋さん、滅茶苦茶おいしいスコーンとマフィンを土産に持ってきてくれたんだぜ。自分ちで作ったんだってよ。マーマのお手製」
「イチヂクのジャムがまた絶品で、星矢はすっかり あのご婦人の虜だ」
好意が食べ物から生まれる――というのは実に星矢らしいことだと、氷河は思ったのである。
否、それは アテナの聖闘士らしい感情と言っていいものなのかもしれなかった。
“家”の中で菓子を焼き、ジャムを作る、家庭的な母親。
親子の情愛に恵まれなかったアテナの聖闘士たちには、それだけで、沢山家の未亡人は憧れと同情の対象になり得るのだ。
だが、だからといって、瞬に好意を抱いている男に瞬を差し出すような真似が安易にできるものだろうか。
そんな義理も義務も自分にはない――というのが、氷河の正直な気持ちだった。

「何を許し、何を協力しろと言うんだ」
「だから、瞬がその息子のとこに行くのを許して、瞬が泣かない秘訣をマスターするのに協力してやれってことだよ。おまえ、得意じゃん。本心隠すの」
「沢山さんの亡くなったご夫君はイギリス人で、いい家の跡取り息子だったらしい。イギリスは階級社会だ。アッパークラスの格式ある家の総領息子が、ガーデニングの勉強をしにきていた庶民の日本人の娘と恋に落ち、親族の反対を押し切って結婚した。そのために勘当同然で日本に渡り、そこで死んでしまったんだ。イギリス側の親族にしてみれば、沢山さんは、大事な息子を家族から奪い死なせてしまった嫁。沢山家はイギリス側の親族とは、完全に行き来が途絶えていたようなんだ。だが、その息子がイギリスに留学して、父方の親族と接触する機会があったらしい。息子は父親に似ていて、風采もいい、頭もいい。それでまあ、格式と家柄を重んじて頑なだったイギリス側の親族の心も解け――いってみれば、バーネット夫人の『小公子』のような展開になった。何もかもうまくいきかけていたところに、この病気というわけだ」
「瞬が力になれるのならなりたいって思ってるのに、同情しすぎて そうできないっていうのは、沢山さんちの息子がハーフで、母ひとり子ひとりで、誰かさんに重なってるせいもあるだろ。半分はおまえのせいなんだから、おまえは瞬に協力する義務があるんだよ」
「沢山さんのお母様は、著名なガーデニングデザイナーなの。お庭を拝見したいとか、ガーデニングのコツを教えてほしいとか、訪問の理由は何とでもなるわ。瞬がお二人の前で泣かずにいられれば、瞬は 束の間でも お二人の心を慰めることができる。こんな言い方は何だけど、瞬には戦いなんかよりずっと ふさわしい仕事だと思うのよ」

アテナと仲間たちが たたみかけるように言葉を尽くして、氷河に翻意――否、決意――を促してくる。
彼等に説き伏せられてしまわないために、氷河は瞬に尋ねることになった。
瞬が、瞬に好意を抱いている男の許に行くのを許し協力する決意は、絶対に瞬の意思に動かされて為されるものでなくてはならなかったのだ。氷河としては。
「おまえは、その男の力になりたいのか」
「それは……なれるものなら……。でも……」
改めて尋ねるまでもないことへの瞬の答えは、改めて聞くまでもないものだった。
沢山家の母子の力になりたいという気持ちに迷いや嘘はないらしい瞬が、氷河の前で不思議そうに首をかしげる。

「氷河は、心を隠すのが上手なの? 氷河は、どちらかといえば感情表現が豊かで、そんなことは不得手なんだと思っていたけど」
「どうでもいいことに関してはな。だが、氷河は、ある件に関しては徹底した秘匿主義を貫いている」
「ある件?」
「そうそう。氷河に教えてもらえ。氷河は、ある件、ある人に関しては、隠しごとの天才だ」
「ある人?」
星矢と紫龍がわざとらしく氷河の隠しごとの存在をほのめかす。
それを暴露されてしまわないために、氷河は結局、星矢たちの脅しに屈するしかなくなってしまったのだった。
「わかった! 本心を隠すコツを瞬に教えてやればいいんだな!」
ほとんどヤケになって、氷河はラウンジに怒声を響かせた。
途端に、星矢の顔がぱっと明るくなる。

「やったー! 瞬。あのお袋さんにさ、俺がスコーンとジャムの美味さに感激してたって、言っといてくれよ! また食いたいって ぼやいてたって!」
「何が目当てなんだか」
星矢の現金な態度に呆れたように苦笑する紫龍は、だが、本当に星矢の食欲に呆れているのではないようだった。
かといって、家庭の味を求める星矢に同情同感しているのでもなく――彼が最も憂い案じているのは、たった一人の息子を失いかけている不運な母親の心だったらしい。

「だが、星矢の図々しい“お願い”はちゃんと伝えてやれ。彼女は、かなり無力感に打ちのめされているようだったから――彼女の手製のスコーンを求めてやまない食いしん坊がいることを知るだけでも、少しは彼女の慰めになるかもしれない」
「うん……」
紫龍と瞬のやりとりが、仲間の卑劣な脅しに屈した我が身に向かっ腹を立てていた氷河の怒気を、静かに消沈させることになった。






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