翌日の午後、沢山家を訪ねた瞬の姿を最初に見付けてくれたのは、庭でオリーブの若木の整枝をしていた沢山夫人だった。 瞬に連れがいるのを見て――事実は、瞬が氷河に連れられているようなものだったのだが――少し不安げな表情を浮かべる。 「いつも……瞬さんとご一緒されていましたね。今日は何か――」 「僕がお呼びしたんですよ、お母さん」 庭に突き出したテラスにいたらしい貴氏が、そこから母と二人の訪問客の方にゆっくりと歩み寄ってくる。 「お茶をテラスの方にお願いできますか。一人分 多く」 息子に戸惑い驚いた様子がないのを見て、未亡人は落ち着きを取り戻したらしい。 彼女は初めて その顔に微笑の形を作り――それは少々ぎこちないものではあったが――背の高い息子に頷いた。 「 最初に瞬が沢山家にやってきた時 沙織が使った椅子に、氷河が着席する。 その席は、沢山家の庭を鑑賞するための特等席だったのだが、氷河は その席に着いた者の特権を全く有効利用しなかった。 美しい庭には目もくれず、この庭を造った女性の一人息子を睥睨する。 「君は瞬に誤解されてもいいと?」 貴氏は、ぶっきらぼう かつ 無愛想 かつ 不躾な氷河の態度と言葉にも、気を悪くした様子を見せない。 だが、今日の彼は、新参の客の前で、瞬が見慣れた微笑を作ることもしなかった。 「誤解されたところで、瞬は俺に対する態度を変えることはないだろうからな」 「それは君にとって悲しむべきことではないのか」 「どうでもいいことだ」 「瞬の態度がどういうものでも、君の気持ちは変わらないから?」 「貴様はどうだ」 「――」 二人は全く喧嘩腰ではないのである。 二人の口調は極めて穏やかな――“荒ぶっていない”という意味で、穏やかな――ものだった。 そして、二人は二人共が見事に無表情だった。 全く表情がないというわけではないのだが、氷河も貴氏も、瞬には到底 その真意を読み取ることのできない表情を、それぞれの顔に浮かべている。 そんな二人の間で、瞬は全身を強張らせていた。 瞬は、こんな氷河を これまで一度も見たことがなかった。 「君は、まだ若いのに、随分と食えない男のようだな」 「貴様もさすがにイギリス仕込みの慇懃無礼だ。瞬をこの家に呼んだのは、母親のためか」 今日 初めて微笑――というより 苦笑――を作りかけていたようだった貴氏が、氷河のその言葉を聞いて、その作業を中断する。 しばしの間をおいてから、彼は、微笑ではなく――声をあげて笑った。 そうして、初めて聞く貴氏の笑い声に驚いている瞬の前で、もう一度、 「本当に、食えない」 と言った。 「僕を呼んだのは、お母さんのため……?」 氷河は何を言っているのかと、瞬は訝ったのである。 瞬が この家を訪ねることになったのは、沢山夫人に頼まれたからで、それは彼女の息子のためだった。 瞬自身は、貴氏のためというより、病を得た息子を気遣う母親のために沢山家にやってきているところがあったが、名目上は それは『母のため』ではなく『息子のため』の訪問だった。 瞬は、そう認識していた。 が、事実はそうではなかったらしい。 「こいつが、毎日 家の前を通る美少女のことを 母に話したのは――おそらく、病のために学業を中断せざるを得なくなった息子を気遣って、母親が意気消沈していたからだ。母親なのに 病気の息子のために何もしてやれない――そういう無力感に打ちのめされ悲しんでいる母親に、息子のために何かができると思わせるため。母親に『息子のためにできること』を与えて、傷付き打ちひしがれている母の心を慰めるためだ」 「……」 氷河の推察――それは根拠のない推察のはずだった――を、貴氏は否定しなかった。 彼は、エルムの木でできたロッキングチェアーの背もたれに身体を預け、勝手な推察を口にしているはずの氷河の上に無言の視線を投じている。 貴氏が否定しないからというより、それが氷河の考えたことだったから――沢山家の二人と同じように、母ひとり子ひとりの境遇にあった氷河の考えたことだったから――瞬は氷河の推察は正鵠を射たものなのだろうと思ったのである。 「いくらおまえが綺麗でも、こいつは、外見の美しさだけで人に好意を持つような軽薄な男じゃない」 「それは褒め言葉と受け取っていいのかな」 「無論、褒めている。実に母思いの孝行息子だと」 氷河の“褒め言葉”には にこりともしなかった貴氏が、氷河の隣りの席で、“母思いの孝行息子”を切なげに見詰めている瞬を認め、僅かに眉根を寄せる。 彼は、一度 その目を閉じてから、氷河にとも瞬にともなく、彼が講じていた密計を静かな声で語り出した。 「母のせいではないのに、僕の病に母があまりに消沈していたので、帰国してからずっと僕は、母をどうにかしてやらなければならないと思っていたんだ。そんな時、僕は、とても可愛らしい花が 毎日 母の庭を眺めながら通り過ぎていくことに気付いた――。瞬は見るからに人がよさそうで、優しそうで、きっと母の頼みをきいてくれると思った。その上、瞬には似合いの恋人がいて、二人は強い信頼で結ばれているように見えた。瞬は、同情心に突き動かされて、僕の許に来る。瞬と近付きになれたことを僕が喜んでみせれば、母はささやかな達成感が得られ、無力感から解放される。深く信じ合い、恋し合っている二人の仲が、そんなことで揺らぐはずがないから、僕は安心して 瞬に恋する男を演じていればいい。そう考えていた」 「あ……」 氷河は貴氏の計画を快く思っていないようだったが、瞬には それは決して不快な企てではなかった。 初めて沢山家を訪問した時に 貴氏が彼の真意を知らせてくれていたら、気の毒な一人の母親の心を慰めるため、自分はもっとうまく振舞うこともできていたのに――とすら、瞬は思った。 瞬の沢山家での態度がぎこちないものになっていたのは、貴氏が自分に好意を抱いていると思い込んでいたからだったのだ。 そうではなかったというのなら、貴氏の計画に協力することに、瞬は どんな迷いも不快も覚えなかったはずだった。 だから、瞬は、氷河が“母思いの孝行息子”を冷たい目をして睨んでいる理由が、どうにも解せなかったのである。 しかし、氷河には氷河の憤りの訳がちゃんとあったらしい。 「瞬を利用しようとした男を、俺が許すと思うか」 「その罰は既に受けている。姿を見かけているだけの時には、僕は瞬の真価に気付いていなかった。赤の他人のために、毎日緊張して、懸命に涙を隠し、必死に明るく振舞って……。見ているだけにとどめておけば、こんな未練を増やすようなことをせずに済んだのにと、僕は自分の軽率を 一度は後悔した」 「一度は?」 「今は、瞬と知り合えてよかったと思っている」 「貴様は、俺を怒らせようとしているのか」 「今更、その必要はないだろう」 「その通りだ」 氷河と貴氏の間にある空気が、痛いほど――まるで刃物のように鋭く張り詰めている。 貴氏はもちろん、氷河も、小宇宙を燃やしているわけではないというのに。 二人の感情が ここまで対立し合う理由を理解できないまま、瞬は、二人の間で心と身体を緊張させていることしかできずにいた。 そこに沢山夫人がお茶を運んでこなかったら、二人はいつまでもその場で睨み合い、そんな二人の間で、瞬の身体は緊張のあまり石になってしまっていたかもしれない。 「ああ、それで君は、君の可愛い花に群がるアブラムシを退治する術を知りたくて、ここにやってきたと言うわけか」 突然、瞬の聞き慣れた優しく穏やかな声で そんなことを言い出した貴氏に、瞬は一瞬 ぽかんとすることになったのである。 「まあ、アブラムシに悩まされているんですの?」 沢山夫人の声と姿に気付き認めてから初めて、瞬は、貴氏の唐突な話題転換の訳を理解したのである。 夫人は、もしかしたら、息子の恋敵が乗り込んできたのではないかと、そんなことを案じていたのかもしれない。 息子たちの会話の内容がアブラムシ被害などという呑気なものであることを知り、僅かに強張っていた彼女の笑みは、目に見えてやわらかなものに変化した。 貴氏が、彼女の手からティーカップとソーサーを受け取りながら頷く。 「とても大切な花なので、薬品は使いたくないそうですよ」 「それは、自分の手で取り除くしかないでしょう。大切な花を傷付けないように、優しく丁寧に」 「僕もそうアドバイスしていたところです」 「何か素晴らしい秘策があるのではないかと期待して伺ったのですが、やはりそうするしかありませんか」 瞬が驚いたことには、その時には、貴氏だけでなく氷河までが、その物腰と口調を極めて穏やかで謙虚なものに変えてしまっていた。 氷河は、その顔ににこやかな微笑さえ浮かべていたのである。 貴氏と同じように。 「それほど大切な お花なら、手間を惜しんではいけませんよ」 「胆に銘じます」 沢山夫人の助言を、氷河が呆れるほど殊勝な態度で聞き入れる。 その後、午後のお茶のテーブルでの話題は、主にアブラムシのたくましさとアブラムシに好かれてしまった花の繊細と健気のことに移り、氷河と瞬のその日の沢山家訪問は、驚くほど和やかな空気の中で平和裡に終わることになったのだった。 殊勝かつ礼儀正しく辞去の挨拶を済ませて 沢山家の門を出た途端に、氷河は苦々しげな口調で、 「ああいう男を本気にさせると厄介だ」 と呟き、その顔を険しいものへと変貌させてしまったのだが。 「氷河……これはいったいどういうことなの」 アブラムシの話に煙に巻かれてしまった瞬は、今日の自分たちの沢山家訪問の意味が まるでわからなくなってしまっていた。 貴氏が氷河を呼んだという氷河の推察は正しかったのか、正しかったのだとしたら、その目的は何だったのか。 二人はなぜ、まるで親の仇に会った者同士のように険悪だったのか。 氷河は当然 自分にその説明をしてくれるものと瞬は思っていたのだが、しかし、氷河の答えは、 「おまえは気にしなくていい」 という、瞬を部外者にしてしまうものだった。 どうして氷河は、彼がわかっていることを自分に知らせてくれないのかと、落胆と失望に包まれることになったのである。 「氷河……僕は、氷河の仲間じゃないの。氷河は、なぜ、そんなにいろんなことを隠したがるの。どうして僕に説明してくれないの。説明しても、僕にはわからないって思ってるの!」 意識したわけではなかったのだが、瞬の声は自然に荒ぶってしまっていた。 そんな瞬に、氷河が溜め息のような視線を投げてくる。 彼は、瞬にその事実を知らせることが いかにも不本意というような口調で、求められたものを瞬に与えてくれた 「あの男は、最初は本気じゃなかった。おまえに気がある振りをしたのも、母親のため。だが、今は本気ということだ。俺に宣戦布告をしたかったんだろう。あの男は、どういうわけか、俺をおまえの恋人だと思い込んでいるようだ」 「……」 『どういうわけか』、『思い込んでいる』。 では、それは事実ではないのだ――。 「安心していろ。あの男は、おそらく紳士的な態度を通すだろう。おまえにすがりたくても――自分の弱っている姿を見せて、おまえの同情を引きたくても。他人に弱みを見せることを、あの男のプライドが許さないだろうからな。奴には不幸なことに。俺にとっては幸いなことに」 「あ……」 氷河に“説明”されて、瞬は、これまで自分が何をしていたのかということを、はっきり自覚することになったのである。 貴氏の真意がどこにあったのかということは、この際 大した問題ではない。 瞬がしていたことは、母の心の平安を願って懸命に生きようとしている人に、傲慢に同情を示すという行為。 血を吐く思いで 息子の生と幸せを願っている母親に、安易に同情するという行為だった。 瞬は、いずれ彼等の歩む道と自分の歩む道は別れるのだからと考えて、軽率に、今はまだ生きている人に実らぬ恋の夢を見せようとしていたのだ。 これほど残酷で思い上がった同情があるものだろうか。 いつまでも同じ道を歩みたいと思っている人に、『どういうわけか、思い込んでいる』と言われるだけで、自分の心は こんなに苦しいというのに。 誰に対しても、どんな状況にあっても、恋を偽り 弄ぶようなことはすべきではない――と、瞬は、これまでの自身の軽率を悔やんだ。 悔やみはしたのだが。 「僕、もう、貴さんのところには行かない方がいいよね……?」 氷河にそう尋ねた時、瞬はおそらく、氷河が『行くな』と答えてくれることを期待していた。 氷河がそう言ってくれさえしたら、自分は これまで通りに沢山家を訪問し続けることもできると、瞬は思っていたのである。――矛盾したことだが。 しかし、氷河は、瞬が望む答えを瞬に与えてはくれなかった。 「行ってやれ。あの男のためではなく、母親のためだと思っていればいい。あの男もそれで文句は言わないだろう」 「氷河はそれでもいいの!」 まるで責めるような口調で、自分は何を叫んでいるのだろうと、瞬は、そんな自分自身を疑ったのである。 氷河が、それでも『いい』のか『悪い』のか――そんなことが、一人の悲しい母親の心を慰めること、必死の思いで生きようとしている人の心を力づけ励ますことに、どんな関わりがあるのかと。 何の関わりもない。 何の関わりもないというのに、瞬は叫ばずにいられなかった。 そして、氷河は 瞬に問われたことに答えを返してはくれなかった。 彼自身がどう思っているのかということには言及せず、瞬がこれからどうするべきなのかということを、氷河が瞬に指示してくる。 「今、中途半端なまま、あの男から逃げ出したら、おまえは いずれ、あの男から――いや、あの母子から逃げたことを後悔する」 「……」 そうなのだろう。 氷河の言う通りなのだろう。 そして、氷河の判断は正しいのだろう。 だが、氷河にそう“指示”された瞬は、なぜか泣きたい気持ちになった。 |