「瞬。俺はおまえが好きだ」 何の前触れもなく突然、氷河に瞬が そう言われたのは、それから1年ほどが経った ある日の朝。 城戸邸の庭では、沢山家の母子が渡米したあとに瞬が植えたレースラベンダーが濃い青紫色の花をつけて、ひっそりと甘い香りを漂わせていた。 沢山家は、今も無人のままだった。 沙織が沢山夫人から預かった庭は、沙織が雇ったガーデナーの世話で 従前と変わらず同じ美しい造形を保っていたが、以前の不思議に心を惹きつける力は失われ、ただ美しいだけの庭になり果てていた。 瞬は、すぐに、氷河の告白の意味を悟ったのである。 この1年、二人は、同じ戦いを戦う仲間として、ある意味では静かに日々を過ごしてきた。 時折 互いに切ない視線を交わし合うことはあったが、その眼差しに込められた思いを語ることはせず。 語らずにいた その思いを、氷河が言葉にした訳。 それは、完治して戻ってくるまで告白しないという貴氏との約束を、彼が守る必要はなくなったということだった。 瞬はその場に立ち尽くし、唇を噛みしめたのである。 レースラベンダーの花が哀しげに 凛とした色の花が揺れる様は、最後まで笑顔しか見せなかった人の穏やかな強さを、瞬に思い起こさせた。 「氷河、教えて。僕は、笑えばいいの。泣けばいいの」 その瞳を覗き込むようにして、氷河に尋ねる。 氷河は、晴れた夏空のように青い瞳を、今は濃い青紫に変えていた。 「好きなようにしろ。おまえのしたいように。心を隠し偽る術は、今は忘れていい」 泣いていいという許可を得ることができたのに、なぜか瞬の瞳は涙を生むことをしなかった。 むしろ涙を失って、痛みを覚えるほどに――今にも ひび割れてしまいそうなほどに、目が乾いていく。 なぜ泣けないのかと、瞬は、そんな自分を訝ったのである。 瞬きもできないほど、自分の身体が固く凍りついているからなのだということに、まもなく瞬は気付いた。 「母君は、夫君の親族と和解することができたらしい。皮肉なことだが、あの男の死が、英国貴族の無意味な自尊心を打ち砕くことになったようだな。しばらく英国で暮らしてから、今後の身の振りを決めるそうだ」 「そう……」 氷河が左の手の平で撫でるようにして、瞬に瞼を閉じさせる。 同時に、瞬の乾いた瞳の上を涙が通り過ぎ、瞬は、目を光に刺されるような痛みから解放された。 「僕、貴さんが日本にいる時から氷河が好きだった。僕は多分、自分の気持ちを隠しきれていなかった。僕はきっと貴さんを傷付けてた」 瞬きをする術を思い出しても、瞬は顔を上向かせることができなかった。 瞬は、今では、貴氏がどんな思いで、彼が利用しようとした子供のために 笑みを絶やさずにいたのかが わかっていたから。 「おまえのせいじゃない。誰のせいでもない」 そうなのだろう。 氷河の言うことは正しいのだろう。 だが、瞬は、悲しい罪悪感を抱かずにはいられなかった。 貴氏の笑顔が失われた世界で、これから自分たちだけが生きていくことに。 そして、これから自分たちだけが幸せになってしまうだろうことに。 それは何という冷酷、何という恐怖だろう。 恐くて崩れ落ちそうになった瞬の身体と心を、氷河の腕が抱きとめ、抱きしめる。 我が身を支え包んでくれるものを得て――氷河の腕と胸を得て、その温かさと力強さに――温かいと感じている自分の無慈悲と無情に、瞬は戦慄したのである。 生きている人間というものは、こういうものなのかと。 「僕は、人を傷付けるのが嫌いだ。戦いなんかなくなればいいと、いつだって思ってた。でも、こんな……こんな思いをするくらいなら――敵と戦っている方がずっとずっと苦しくないよ……!」 「そうだな」 溜め息のような氷河の声は、非力な子供を慈しむ父親か母親のようで、瞬の肩を包む氷河の手は、か弱い花を風から庇おうとする人のように優しかった。 今は、瞬は、優しさなど求めてはいなかったのだが。 むしろ、厳しく、あるいは冷たく、氷河の胸の温かさに酔っている自分を責めてほしかったのだが。 「人間は、自然に笑って、自然に泣いていられるのなら、それがいちばん楽なんだ。本当の心や感情を隠し偽るのは、自分以外の人の幸福を願うからで、その術を学び身につけることが、大人になるということなんだろう」 「貴さんみたいに? 貴さんはいつも自分の心を偽ってた。お母さんと僕のために」 「そうだ、おまえが奴のために無理に笑っていたように、あの男も おまえや母親のために自分の心を偽り隠していた。あの男は、おまえより はるかに巧みに それをしていたが。おそらく、奴は最期まで泣き言の一つも言わず、笑っていただろう」 「僕もいつかそんな大人になるの」 「なれなければ子供のままだ」 そう言われて初めて、瞬は気付いたのである。 瞬が求めているものを、氷河はちゃんと求めている者に与えようとしてくれていることに。 氷河の声や胸は驚くほど優しいのに、彼が口にしている言葉の内容は 尋常でなく厳しいものだった。 「沙織さんや星矢たちが、おまえを心配している」 「……」 死んだ人を悼み、その死を悲しむより、生きている人のために笑うことを、氷河は瞬に求めていた。 『おまえは、おまえを気遣い、心配してくれる人たちの前で泣くことができるのか』と、氷河は瞬を問い質し、そして、『大人になれ』と命じていた。 それは、瞬が求めている厳しさや冷たさより はるかに実行の困難な 生きている人間の義務だった。 自分に そんな難しいことができるのかと心細くなった瞬に、氷河が 「俺の前では泣いていいから」 「氷河……」 敵を倒して生き延び、優しくしてくれた人の力にもなることもできずに生き延びている非力な子供に、いったい氷河は優しくしようとしているのか、厳しさを示そうとしているのか――。 彼の真意を確かめるために 恐る恐る顔をあげて、彼の瞳を見詰めた瞬は、氷河が自分に与えようとしているものは、その両方なのだということを知った。 「俺はおまえのために何をしてやることもできないが……おまえの悩み一つも消し去ってやることもできないが、おまえの泣き場所くらいにはなれるかもしれない。そう思ったから、おまえに好きだと告げる決意ができたんだ」 その決意を、氷河は亡くなった人からもらった力だと思っているようだった。 そして、氷河は――氷河もまた、彼の死を悲しんでいるようだった。 人は一人で生きていないから、人の思い遣りや優しさに支えられて生きているものだから、愛されて愛を知るものだから、大人になるしかないのだ。 愛されたら、大人になって愛し返すしかない。 それ以外に、人は、自分を愛し思い遣ってくれた人に報いる術を持たない。 自分を愛し思い遣ってくれた人を失ったのなら、生きている他の誰かに。 その務めを果たすことができるなら、おそらく人は幸福になってもいいのだろう。 自分の非力を認めないために、愛されたことを忘れようとする行為は、それこそが弱さそのものなのだ。 「明日から大人になる」 「ああ」 「明日から、きっと」 悲しみに耐えられなくなった時、この人が側にいて 泣くことを許してくれるというのなら、自分は大人になることもできるだろうと、瞬は氷河の胸の中で思った。 そして、この人が いつも側にいてくれるのなら、自分は幸せになることもできるだろう――と。 これからも自分の生を生きていく者たちが、彼の死を嘆き悲しみ不幸になることを、穏やかで強かった あの人は望んでいないだろう。 残された者たちが幸福になることが、彼の望み。 それこそが彼の望みなのだと、疑いもなく信じさせてくれる人だった。 彼が瞬の許に残していった幸せが、ひどく切なく哀しく 瞬の胸をしめつける。 それは静かで穏やかで、儚さをさえ感じさせるものだった。 だが、不思議な強さをもって瞬の胸に刻みつけられたそれは、もはや永遠に自分から分かたれることはないのだろうと、瞬は思ったのである。 彼と 彼が残していってくれた幸せは、そうして、永遠に そこに在り続けるのだ。 この地上から失われてしまっても、記憶から消えることはない美しい庭の面影のように。 Fin.
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