「どこの馬鹿が誰を好きだと?」
据わりきった三白眼で氷河にそう尋ねてきたのは、言わずと知れた(だが、なぜ ここにいるのか皆目 訳がわからない)瞬の兄。
今から5分後には 瞬は白鳥座の聖闘士の恋人になっていると確信していた氷河は、瞬の兄の姿を認め、非常に嫌な気分になった。
気分と同じ調子の声で、瞬の兄に尋ねる。
「貴様、いつ帰ってきた」
「たった今だ。瞬の身に危険が迫っているような気がしたんでな。なるほど、そういうことか」
瞬の兄は、すべての人間が これ以上妥当な理由はないと認める彼の城戸邸帰館理由を、氷河に告げてきた。
あいにく 氷河は、その理由を妥当なものとして受け入れることはできなかったが。

「そういうこととは どういうことだ。まるで、俺が瞬にとって危険物であるかのような言い草だな」
「そうでないつもりでいるのなら、貴様は自覚が足りんとしか言いようがないな。俺は、貴様の毒牙から瞬を死守するぞ!」
「何が毒牙だ。そこをどけ! 俺は貴様なんぞに用はない!」
「そうはいかん」
さすがに直接 毒牙をへし折るわけにはいかなかったらしい瞬の兄が、氷河の腕を掴みあげるべく光速の動きを見せる。
氷河は素早く身を沈ませ、一輝の背後にまわり込むことで瞬の兄の拘束の手を逃れた。

「邪魔立てするなっ」
「最愛の弟の身を、ろくでもない男の毒牙から守るのは、瞬の兄である俺の義務だ!」
「貴様の義務なんか知るかっ。俺は、今日こそ 瞬に 俺の気持ちをわかってもらうんだ!」
「貴様がいつも邪まな欲望を抱いて瞬を見ていることをか !? 瞬を恐がらせるようなことをさせるわけにはいかん!」
「俺を貴様のレベルにまで下げて、下種にするのはやめてもらおう。俺は純粋な気持ちで瞬が好きなんだ!」
「助平心の塊りが よく言う」
「貴様に俺の気持ちをわかってもらおうとは思わん。俺がわかってほしいのは瞬だけだ。俺が好きなのは瞬だけだということを、瞬にわかってもらう。今すぐにだ。ええい、そこをどけっ。俺は1秒でも早く瞬の誤解を解かなければならんのだっ」

『どけ』と言われて素直にどく一輝でないことは、『どけ』と言った氷河自身が誰よりよく知っていた。
白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士が、“敵”との間合いをとりながら 徐々に その小宇宙を燃やし始める。
当然のことながら、互いに『正義は我にあり』と信じている二人の男たちの辞書に『手加減』『自制』『理性』の文字は載っていなかった。

「もう一度、その図々しくも汚らわしいセリフを吐いてみろ! その時には、貴様の命はないと思え!」
「『命はないと思え』だ? ふん。何度でも言ってやる。好きだ、好きだ、好きだ! どうだ、一度だけでなく三度も言ったぞ。俺を三回殺すのか。殺せるものなら殺してみ――」
がっしゃーん !!

いきり立つ二人の男の罵倒の叩きつけ合いを止めたのは、城戸邸の廊下に響き渡ったガラスの割れる音。
その音を作り出したのは、氷河の恋の告白の本来の相手にして、一輝の最愛の弟でもあるアンドロメダ座の聖闘士だった。

悲鳴のような音を響かせて割れたのは、瞬が その手から取り落としたガラスの一輪挿し。
細く小さな花瓶には深紅の薔薇が活けられていたらしく、床に飛び散ったガラスと水の きらめきの中には、まだ半分 蕾のままの一輪の薔薇が横たわっていた。
瞬は、今度こそ本当に氷河のために――氷河の恋のため、氷河の幸せのためになることをするのだと 自らに言いきかせ、閉じこもっていた部屋から出てきたところだった。
そのためには氷河が本当に好きな相手は誰なのか――星矢なのか紫龍なのか――を確かめる必要があり、その重要な情報を手に入れるための道具として、瞬はその薔薇を選んだ。
氷河の本当の恋人の名を言葉で直接 彼に告げられるのは つらいので、『氷河の好きな人に、この薔薇をあげて』と言うつもりで、瞬はその花をこの場に持ってきたのである。
自分の仲間たちが薔薇の花言葉を知っていると思い込んでいるところが、瞬の浅慮――もしくは、買いかぶり――だったのだが、事態がこうなってしまった今、それは大した問題ではないだろう。
ともかく、廊下に鋭い音を響かせて割れたのは、そういう事情で瞬が運んできたガラスの一輪挿しだった。

「しゅ……」
一輝に邪魔をされる前に――氷河は急いで瞬の側に駆け寄ろうとしたのである。
そして、瞬の兄が その場にいることになど委細構わず、今すぐ瞬への告白をしてしまおうとした。
してしまおうとしたのである。
が、彼はそうすることができなかった――できなくなってしまった。
他の誰のせいでもない、頬を青ざめさせて廊下の端に立ち尽くし、白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士を見詰めている彼の最愛の恋人のせいで。

「氷河が好きな人って、まさか、い……一輝兄さん……?」
「なに……?」
瞬のその呟きは、某白鳥座の聖闘士のシベリア仕込みの足封じ技より確実かつ圧倒的な力をもって、氷河の足を凍りつかせた。
足だけでなく、氷河の顔も手も声も、毛が生えているに違いない彼の心臓をすら凍りつかせた。
それは、瞬の兄も全く同様。
灼熱の炎の聖闘士の怒りの小宇宙の力など、瞬の その呟きの前では ひとえに風の前の塵に同じだったのだ。

いっそ このまま永遠に凍りつき、あんな恐ろしい呟きのある世界には戻りたくない――という気持ちが、二人の中に生じなかったとは言いきれない。
それでも二人が瞬の呟きの呪縛を 僅か2分で打ち破ってみせたのは、“あんな恐ろしい呟きのある世界”が彼等の最愛の恋人・最愛の弟のいる世界だからだったろう。
それより何より、瞬の恐るべき誤解を1秒でも早く解きたいという切実な思いが、もしかしたら水瓶座の黄金聖闘士の凍気より強力な呪縛だったかもしれない瞬の呟きから、二人を自由にした。
氷河と一輝は、ほぼ同じタイミングで 瞬の足封じ技の呪縛から抜け出し、1000分の1秒のずれもなく二人揃って、
「気持ちの悪いことを言うなーっ !! 」
と、最愛の恋人・最愛の弟に向かって叫んだのである。

氷河は、一輝と声を揃えて そんなことを言うべきではなかった。
自分の感情や感懐を何より優先して吐露することを願い実行してしまうのは、ある意味 人間のさがなのかもしれない。
だが、それでも やはり、氷河は そんなことを言うべきではなかった。
彼は、そんなことより先に、まず『俺が好きなのはおまえだ』ということを瞬に訴えるべきだったのである。
それをしなかったから、氷河は、瞬の兄に、
「そういう気持ちの悪いことを言うんじゃない! この馬鹿が好きなのはおまえだっ!」
と、告白の(?)先を越されてしまったのである。

一輝に先を越されてしまった氷河が間抜けなのか、言わずにいればいいことを言ってしまう一輝が馬鹿なのか。
開け放たれたラウンジのドアの前で、星矢と紫龍は、瞬の兄と氷河の愚かさの比較検討に入ることになった。
当事者でない分、彼等には余裕があった――と言えるだろう。
が、この騒ぎの当事者の一人である瞬は そうはいかなかったのである。
氷河ではなく兄の告白に、一度 大きく瞳を見開いた瞬は、やがて その瞳からぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。

「兄さん、ひどい……。僕の気持ち 知ってるくせに、そんなひどい嘘を言って、僕をからかうなんて……ひどい……」
「おまえの気持ち……とは――」
一輝は、弟の気持ちを知らなかった―― 一度も知らされたことはなかった。
そんなことだろうと 薄々察してはいたが、直接 瞬に打ち明けられたことはない。
それは、今初めて知らされた“僕の気持ち”だった。
できれば一生知らないままでいたかった弟の“気持ち”――。

もちろん、一輝は弟のその言葉にショックを受けた。
この場に弟や仲間たちがいなかったら、自分こそが泣きわめきたいと乞い願うほどに。
にもかかわらず、瞬の兄には、優雅に弟の悪趣味を嘆く時間も余裕も与えられなかったのである。
「ぼ……僕、兄さんと氷河が好き合ってるのなら、僕は ちゃんと、わ……笑って祝福するのに、なのに、そんなひどい嘘――」
という瞬の切ない訴えが、最愛の弟の瞳から零れ続ける涙が、自らの嘆きを嘆く時間と余裕を一輝から奪ってしまったのである。
瞬の涙がもたらす心臓への負担に比べれば、『笑って祝福する』という言葉によってもたらされた衝撃など 物の数ではなかった。
瞬の兄にとっては。

「頼むから泣くなと言うのにっ。この馬鹿が好きなのはおまえだっ。そんなことは誰でも知っている。知らないのはおまえくらいのものだっ」
「兄さん、まだそんなこと……。兄さんは そんなに僕をいじめるのが楽しいの……」
「いや、だから、それは誤解だと――」
「氷河は、あんなにはっきり兄さんのこと好きだって言ったのに……! 兄さんだって、ちゃんと氷河に応えてあげるべきです!」
瞬はいったい氷河に何を応えてあげろ・・・と兄にいうのか。
瞬の命令の意味するところを確かめるのも恐ろしくて、一輝は唇の端をひくひくと引きつらせた。

「だから、それは誤解だというのに! あれは、この馬鹿が馬鹿だから、目的格をはっきり言わなかっただけで、この馬鹿が好きなのはガキの頃からずっとおまえだけなんだっ」
「兄さん、お願い。氷河に応えてあげて……!」
「だから、この馬鹿が好きなのは おまえだと、さっきから言っとるだろーが!」
弟の涙を止めるために、瞬の兄が懸命に『この馬鹿が好きなのはおまえ』を繰り返す。
瞬も必死なら、一輝も必死。
が、互いに譲ろうとしない兄と弟のやりとりを傍で見物しているだけの星矢と紫龍は、冷静そのものだった。

「一輝の奴、瞬を氷河の毒牙から守るのが 瞬の兄の義務とか言ってなかったか? あれって、氷河の毒牙から瞬を守ってることになんのか?」
「なるんじゃないか? 瞬は、一輝の言うことを全く信じていないようだし」
紫龍の言う通り、『この馬鹿が好きなのはおまえ』を繰り返されれば繰り返されるほど、瞬は兄の言葉を悪質な嘘と思う気持ちを強めているようだった。
「なるほど。逆説療法かー」
星矢は、一輝の巧みな兄の義務遂行の技に大いに感心することになった。
とはいえ、瞬の兄は、自分が弟に逆説療法を施しているつもりは全くなかったのである。
彼は、とにかく最愛の弟の涙を止めたいだけだった。
そして、彼には、自分と氷河が好き合っているなどという馬鹿げた考えを、最愛の弟に抱かれることは不本意の極みだった。

「氷河っ! ぼけっとしてないで、何とか言えっ。貴様がいつまでも悠長に構えているから、こんなことになるんだっ」
「え……あ……」
あまりと言えばあまりな瞬の誤解に、特に『笑って祝福する』のフレーズに衝撃を受けて自失していた氷河が、瞬の兄の怒声で はっと我にかえる。
そうして、氷河は慌てて――今となっては瞬の兄の告白をなぞり繰り返すだけの言葉を、瞬に告げた。
「一輝の言う通りだ。俺が好きなのはおまえだ!」

今となっては瞬の兄の告白をなぞり繰り返すだけの言葉――だが、今度こそは目的格の明確な正しい告白――を、氷河はした。
どんな誤解もできないほど はっきりと、氷河は瞬に自らの思いを ついに瞬に伝えたのである。
だが、何ということだろう。
瞬は、主語と述語と目的語が これ以上なく明確で、誤解することは不可能と言っていい氷河の告白を、全く信じてくれなかったのである。
「氷河まで、そんな嘘を言って、僕を苦しめて……それで何が楽しいの……」
どれほど完璧な恋の告白をしても、それを相手に信じてもらえないのでは意味がない。
瞬はすっかり 氷河と兄が意地悪で嘘を言い募っていると思い込んでしまっているようだった。

「おい……」
「うむ……」
この状況は、既に笑って見物していていい状況を通り過ぎている。
さすがの星矢と紫龍も、これはまずいと危機感を抱くことになった。
その危機感に衝き動かされて、彼等は、急遽 ノンキな傍観者の立場を放棄し、一輝と氷河の加勢に入っていったのである。
「氷河の言ってることはほんとのことだぞ。こいつは、ずっと前からおまえのことを好きだったんだ」
「星矢の言う通りだ。氷河が好きなのはおまえだ。他の誰かではない」
「みんなして、僕をいじめて……ひどい……」

瞬が信じていないのは――信じられなくなっているのは――どうやら氷河だけではなかったらしい。
それほど 兄に対する氷河の告白が衝撃的だったのか、あるいは、これまでの誤解の積み重ねで傷付いていた瞬の心が、兄への氷河の告白を聞くことによって、ついに臨界点を突破してしまったのか。
瞬から仲間への信頼を奪い去った真の原因は定かではないが、ともかく、それが現実だった。
心に負った傷が深く大きすぎて、瞬は誰の言葉も信じられなくなってしまっている――というのが。

この状況が続けば、氷河の恋だけでなく、アテナの聖闘士たちの信頼や友情までが やがては損なわれ、それは地上の平和と安寧を守るための彼等の戦いにも支障をきたすことになるだろう。
氷河が目的格のはっきりした告白をしなかったばかりに、この地上が滅ぶことになるかもしれないのだ。
だが、それは――それだけはあってはならないことだった。
アテナの聖闘士が地上の滅亡の片棒を担ぐようなことだけは。

だが、どうすれば、瞬に瞬本来の素直な心と 仲間への信頼を取り戻すことができるのか。
その方法がわからず、瞬の仲間たちは途方に暮れてしまったのである。
傷付き打ちひしがれた瞬を 為す術もなく取り囲んでいるアテナの聖闘士たちの前に 彼等の女神が登場しなかったなら、彼等は、傷付いた人間の心を癒すことの為し難さに苦悩しながら、人類滅亡のその時まで ずっとそうしていたかもしれない。
だが、ともかく、彼等の前に彼等の女神はやってきてくれたのだ。
彼女は 少々ご機嫌斜めのようだった。






【next】