一つの愛が生まれたこと。 もしかしたら、それが その変事の発端だったのかもしれない。 人知れず ひっそりと生まれた その愛は、誰の目にも留まらぬ場所で静寂のうちに成長し、肥大し、やがて制御が不可能になった。 それがすべての始まりだったのだ、おそらく。 一人の男の恋。 しかし、誰もそのことに気付いていなかったのである。 それどころか、聖域の者たちは皆、その事件の発端と原因は、聖域のアテナと冥界のハーデスによって結ばれた停戦協定にあると考えていた。 が、その見当違いも致し方のないことだったろう。 戦いの女神アテナと冥府の王ハーデスの戦いは、数千年も前、神話の時代から続いてきた、宿命の――あるいは因縁の――戦いなのである。 その戦いに先立つ原因や その戦いより重要な動機など、普通は考えられない。 特に限りある命をしか有していない人間たちには、考えられないことだったのだ。 だが、アテナとハーデスの戦いの始まりと、この世界における“愛”の生成とでは、どちらが先に起こったものだったろう。 ギリシャ世界に限っても、それは改めて考えるまでもなく明らかなことだった。 ギリシャでは、無限の アテナもハーデスも“愛”が生まれたあとに出現した神。 世界は、“場所”と“愛”から始まったのだ。 とはいえ、事態が 人々の目に見える場所で動き始めたのが、アテナとハーデスによって停戦協定が結ばれた時だったこともまた 確かな事実ではあったのだが。 戦いの女神アテナと冥府の王ハーデスの戦い――聖戦。 それは、極めて根源的な戦いであるといえるだろう。 ハーデスは、地上から人類を消し去り、無人の大地を自らの支配する闇の世界にしようとし、アテナは、地上に存在する光と人間たちとを守ろうとする。 それは生と死の戦い、光と闇の戦い、人間の存在の是非を問う戦いだった。 光と闇の二つの陣営は、双方死力を尽くして戦うため、ひとまずの決着がつくと、それぞれの軍を構成する戦士のほとんどが命を落とし、その結果として 長い休戦を余儀なくされる。 直接戦いを行なう双方の戦士たちはもちろん、神であるアテナとハーデスさえ、その戦いでは疲弊し力を失うのだ。 生と死、それぞれの陣営は、数百年の長い眠りに就き、長い時間をかけて力を養い、再び戦いが始まる。 その繰り返し。 それは、永遠に決着のつかない戦いなのかもしれなかった。 先の聖戦の終結から二百数十余年。 ハーデスが長い眠りから目覚め、その活動を開始する時、アテナがハーデスに対して、戦いの再開を思いとどまる気はないかと打診するのは いつものことだった。 二柱の神が力を蓄えて目覚め、聖戦が始まる際、数百年ごとに繰り返されてきた儀式と言っていい。 もちろん、そのたびに、ハーデスはアテナの提案を退けてきた。 であればこそ――ハーデスがいつも戦いを望んだからこそ、アテナとハーデスの聖戦は、戦いの勢いの消長を繰り返しながら、数千年の長きに渡って連綿と続いてきたのだ。 それでも儀式は行なわれなければならない。 ハーデスの覚醒を知った当代のアテナも、当然のごとく、その儀式を執り行なった。 すなわち、冥府の王に、無益な戦いをやめることを提案した。 もしかすると、アテナは、その時、自分の申し出がハーデスに受け入れられることがあるなどとは毫も考えていなかったかもしれない。 だが、アテナの予想に反して、どういう気紛れなのか、今回に限って、ハーデスはアテナの提案を受け入れることをしたのである。 アテナの陣営は、先の聖戦で、聖闘士のほとんどを失っていた。 二百数十年の時間をかけて、当代の聖闘士たちは徐々に揃いつつあったのだが、想定外の内乱によって、聖戦前に落命した黄金聖闘士が幾人もおり、生き残っている白銀聖闘士も2、3人を数えるばかりだった。 つまり、アテナの陣営は、常の聖戦より不利な体制で 新たな聖戦に臨まなければならない状況にあったのである。 冥界有利のうちに始まろうとしていた聖戦。 にもかかわらず、冥府の王は、聖戦の再開を見送りたいというアテナの申し出を受諾した。 はっきりと勝機が見えているというのに、自ら有利な戦いを放棄するも同然のハーデスの決定。 当然のことながら、聖域の者たちは、冥府の王の意図を疑わずにはいられなかったのである。 何か、冥界に不測の事態が起きているのではないか。 聖域の者たちが気付いていないだけで、実は このたびの戦いは冥界軍こそが不利な状況に置かれているのではないか。 あるいはハーデスには何らかの企みがあるのではないか――。 聖域の者たちが、本来であれば喜ばしいハーデスの決定を疑うのは当然のことだった。 彼女の聖闘士の命を惜しむアテナと違って、ハーデスは 彼の冥闘士の命を惜しむようなことはしない神だった。 そもそもハーデスは死の国の王。 彼にとって冥闘士の生死は、思い煩う必要のないもの。 ハーデスにとっては、それは 生きた冥闘士を支配するか、死者としての冥闘士を支配するかの違いしかない問題だったのだ。 冥闘士の死を恐れる必要のないハーデスには、戦いを恐れる必要もない。 ハーデスにとっては、人間の命はほぼ無意味なもの――たとえ それが命を賭して彼のために戦った冥闘士の命であっても。 神である彼自身は死なないのだから、手持ちの兵を失ったなら、冥府の王は再び長い眠りに就けばいいだけのことだったのだ。 実際、先の聖戦では、彼は その通りのことをした。 先の聖戦で冥闘士のほとんどを失った彼は、新たな戦いを再開できるだけの手駒が揃う時を待って、長い眠りに就いたのである。 そうして二百数十年。 108人の冥闘士が揃ったからこそ、彼は覚醒したはず。 現在の冥界軍は万全の体制にあるはず。 ハーデスがアテナの提案を受け入れることは、ありえないことだったのだ。 彼が突然、人間への愛に目覚めたのでもない限り。 |