ハーデスの配下の者とおぼしき二人の男が 聖域を“訪問”してきたのは翌日のことだった。 どうやってアテナの結界を破ったのかと問われた二人の男は、『我々は人間ではないから』と答えてきた。 死と眠りを司る神――死と眠りは、どんな場所にでも入り込めるのだと。 「まったく、ハーデス様は何をお考えなのか。このような者共、赤子の手をひねるより容易に倒せるのに」 「今の聖域は、黄金聖闘士も数名欠けているというではないか。圧倒的優位にありながら、ハーデス様は いったいなぜ戦いをためらわれるのだ」 どうやら彼等は、覚醒を果たしながら聖域との戦いを始めない冥府の王に不満を抱く者ちち――ハーデス曰く『余を責めている』者たちらしい。 人間を見下している彼等の態度は、ハーデスのそれより露骨だった。 「そう簡単に倒せる相手かどうか、試してみたらどうだ!」 まるで それが自分の務めと言わんばかりの勢いで、星矢が彼等の挑発に乗り、 「星矢。停戦協定中なんだから、血気に逸らないで」 「落ち着け、星矢。ここで奴等の挑発に乗ったら、冥界に開戦の大義名分を与えることになる」 星矢の仲間としての務めで、瞬と紫龍が星矢を押しとどめる。 冥界におけるハーデスの権威と力は絶対のはず。 たとえ神であっても、ハーデスの意思に背いて 彼等が勝手に戦いを始めるはずはない。 瞬はそう思っていたし、おそらく紫龍も氷河もそう思っていた。 底意の見えないハーデスの胡散臭さに振り回されているより、さっさと戦いを始めてしまいたいというのが本音の星矢ですら、金銀の二柱が ここで本当に拳を繰り出してくるとは考えてもいなかったのである。 まして、ハーデスの“可愛い瞬”の上に 彼等がその力を及ぼしてくるなどということは、青銅聖闘士たちには完全に想定外のことだった。 しかし、彼等はそれをした。 銀色の神が、軽く片手を上げ、空気を裂く。 そのために できた気圧差が目に見えない巨大な剣のようになって、瞬の上に振り下ろされた。 全く考えていなかった事態。 瞬を庇うために動くことができたのは氷河だけだった。 瞬自身ですら、我が身を守るために動くことができなかった。 「瞬!」 鋭い刃物と化した空気が、氷河の頬を裂いた――おそらく。 鮮血が霧のように飛び散った――おそらく。 世界全体に薄い朱色のフィルターが かかってしまったような錯覚に、瞬は襲われたのである。 目の前にある氷河の肩と背中だけに、血の色のフィルターがかかっていなかった。 瞬を血の霧から守ってくれた人の背中だけが、戦慄するほど白かった。 「氷河っ!」 血の色の世界に飛び込んでいくのが、瞬は恐かった。 血の霧が――というのではなく、切り裂かれた氷河の姿を見てしまうことが。 それが ひどいものであることは、氷河の前にまわり込んでいかなくても――朱色の世界にいる星矢や紫龍の表情を見るだけでも、容易に察することはできたのだが。 裂けているのは頬だけではなかった。 額と髪と、そして左目――傷が癒えかけていた左目。 血の霧は 今は消え去り、それは氷河の足元の石の道に落ちていた。 「氷河……! 氷河、氷河、氷河!」 その傷がどれほどのものなのか、瞬にはわからなかった。 傷付き裂けた箇所を瞬の目から隠している氷河の左手の指の間から、赤い血が したたり落ちている。 仲間の名を叫ぶことしかできない自分の無力を、瞬は心の底から憎悪した。 「そんなに大きな声を出さなくても、ちゃんと聞こえている。騒ぐな。左目が利かないので、遠近感が掴めなかっただけだ」 「氷河……でも、目が……目が……」 「死んだわけじゃない。騒ぐな。騒げば、おまえの嫌いな戦いが始まる」 「氷河……」 もちろん、戦いは始まってほしくない。 だが、そのために 傷付き血を したたらせている仲間を この世界から戦いをなくすためには、人間が人間の心を失うしか道はないのではないかと、血に濡れている氷河の手と指を見ながら、瞬は思った。 そんな瞬の上に、人間ではない者の無責任な声が降ってくる。 「この程度の拳がよけられないとは、アテナの聖闘士など恐るるに足りん。いや、話にならん。おい、本当に始めちまった方がいいんじゃないか」 『ふざけるな!』と、瞬は、銀色の神を怒鳴りつけてやりたかったのである。 実際、瞬はそうしていただろう。 銀色の神を睨みつけた瞬の腕を、氷河が血に染まっていない方の手で掴み、引き止めてくれなかったら。 「そうはいかん。ハーデス様のご意思に背くわけにはいかん。だいいち、おまえの拳は――」 銀色の神よりはハーデスに従順で忠実らしい金色の神が、身体の半分を血の色に染めているアテナの聖闘士の上に視線を落とす。 しばし何事かを考えている素振りを見せてから、 「この者の言う通り、騒ぎはこれくらいで十分だ」 と、まるで氷河に語りかけるような独り言を呟く。 彼は、そうして、まだ騒ぎ足りないという顔をしている銀色の神と共に、瞬たちの前から――そして、聖域から――姿を消してしまったのだった。 |