「大変 申し訳なく思っている。余の決めた停戦協定が気に入らない者たちが暴走したようだ。あの者たちには、以後千年間は冥界の外に出ぬよう、きつく申し渡しておいたので、この件はなかったことにしてほしい」
死を司る神が引き起こした“騒ぎ”と氷河の負傷は、生まれて この方ただの一度も 神にも人間にも謝罪したことがないというハーデスがアテナに謝罪することによって、“なかったこと”にされた。

「たとえ神といえども――眠りの神ヒュプノスならともかく、冥界がなければ そもそも神としての存在意義を持つことのできない死の神タナトスが冥界の王の意思に逆らって暴走することなど できるはずがないのだけれど……」
アテナは、ハーデスの謝罪そのものを――“なかったこと”にされた騒ぎ自体がハーデスの命令によって引き起こされたものである可能性を――疑っているようだったが、ともあれ、聖戦の開始は、冥府の王がアテナに頭を下げることによって回避されたのだった。


だが、戦いの回避のために払われた犠牲は、決して小さなものではなかったのである。
「おまえ、この頃、滅茶苦茶 目付きが悪くなったぞ。ハーデスより目付きが悪い」
しかも、一つだけ残された、光を映す目の輝きは、どこか不吉。
氷河の負傷に責任を感じている瞬の心を慰めるためのジョークを装い、笑ってそう言いながら、星矢は実は本気で氷河の目の表情の変化を奇異に思い、案じていた。

「片目だけに負担がかかって、藪睨みになるせいだ」
「……」
氷河の変化は、彼が その左目の視力を失うことによって、ごく自然に 聖域の者たちに認められ、受け入れられることになった。
白鳥座の聖闘士が“外”を見なくなったとしても、それは致し方のないことではないか。彼は世界の半分を知覚する力を失ってしまったのだから――と。
だが、星矢は、氷河の変化が、彼の左目失明以前に既に始まっていたことを知っていた。
もっと以前に、氷河の中では何かが始まっていたのだ。
それが何であるのかは、星矢には わからなかったのであるけれども。

星矢の際どいジョークには にこりともしなかった氷河が、その隣りで頬を蒼白にしている瞬のために、明るく軽い苦笑を作る。
海界での戦いで負った傷がやっと癒えかけていたというのに、まるで その時を見計らい待ち受けていたかのような冥界からの急襲。
アテナが疑っているように、それがハーデスの命令によるものだったとしたら、氷河の失明の原因は直接的にも間接的にも自分の上にある。
この程度の怪我は気にするほどのものではないと瞬に訴えるかのように、傷がふさがってからは包帯を拒み、だが その髪で左目を覆い隠している氷河の思い遣りが、瞬は苦しくてならなかった。

「氷河……僕……僕はどうしたら――」
「そんな顔をするな」
「でも……」
「おまえは色々と気に病みすぎるんだ。俺は死んだわけではないんだぞ」
「でも、僕のせいだ」
「おまえのせいであるはずがないだろう。間違えるな。これは“俺のせい”か、でなかったとしても、せいぜい“ハーデスのせい”だ」
「……」

そうなのだろう。
氷河の言うことは正しいのだろう。
氷河の怪我と失明は、彼に庇われたアンドロメダ座の聖闘士のせいではなく、直接 氷河に拳を振るった死の神のせいでもない。
冥府の王と、悪魔の手先として彼に見込まれた非力で哀れな一人の人間のせいなのだ。
その哀れな人間が自分であることが、瞬には呪われた悪夢のように思われた。






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