「また随分と派手なアクセサリーで身を飾ったものだ。それでなくても無駄に目立つ姿をしていたのに」 瞬以外の人間には全く関心を抱いていないようだった冥府の王が 氷河の前にやってきたのは、彼の神としての栄誉栄光を妨げる障害物として、彼が氷河を認識するようになったからだったろう。 氷河とは逆の方向に 無駄に目立つ姿をしている黒衣の神は、アテナのいないアテナ神殿の広間に、低く皮肉な声を響かせた。 「人間というものは、自分が罪を犯した時、その罪を神に告解することで 責任逃れをするそうだな。そなたの罪、余が聞いてやってもよいぞ。そなたも、アテナよりは余の方が、犯した罪を打ち明けやすいだろう」 「俺は罪など犯していない」 敵である神の戯れ言に付き合ってなどいられるかと言わんばかりの態度でそう言って、氷河が踵を返す。 ハーデスは、氷河の無視を無視した。 「瞬は そなたの身を案じてばかりいる。余の側にいる時もずっと。その これ見よがしの傷も、瞬の目には 痛々しい自己犠牲の証に映るようだ。そなたは、瞬に心配をかけるのが実に上手い」 「……」 「そなた、わざと そう仕向けているな」 「……」 氷河は何も答えなかった。 ただ、その場から立ち去ることも、彼にはできなかったのである。 ハーデスの正しい推察を誤解にしてしまわなければ、冥府の王は瞬の耳に何を吹き込むか わかったものではない。 氷河は、その事態だけは絶対に避けなければならなかった。 「瞬は、そなたばかりが なぜこんなに苦しみ傷付くことになるのかと嘆き悲しんでいる。“大切な人”とやらを多く失い、冥界との戦いは そなたにとってこそ最もつらい試練。その上、仲間のせいで傷付き光を失った。だというのに、“優しい氷河”は すべての元凶である自分を責めもしない――とな。そなたが 本当は 死者のことなど どうでもいいと思っていることも知らずに、瞬は――」 「冥府の王は、もっと寡黙な男だと思っていた。べらべらと よく喋るな」 「なに?」 人間ごときに そんな軽侮の言葉を吐かれるのは、ハーデスには初めてのことだったのかもしれない。 氷河の恐れ知らずな態度に、彼は一瞬 呆れたような顔になった。 やがて、白鳥座の聖闘士の涜神が、星矢のそれのように無思慮な無鉄砲から生じたものではないことに気付いたらしく――冥府の王は、不快そうに僅かに眉をひそめた。 ハーデスが何をどう思おうと、そんなことはどうでもいいが、それを瞬に語られるのは困る。 氷河は、ハーデスの考えを、冷ややかに訂正した。 「――どうでもいいと思っているわけではない。どうにもならないと思っているだけだ。安らかに眠っていてほしいと願っているだけ」 「では、そう思っていると、なぜ瞬に言わぬのだ? そなたが欲しいのは、死んだ者ではなく生きている者なのだと。瞬は、そなたが生者と死者の間で悩み揺れているのだと信じている」 「――」 言わないのは、もちろん、言わないでいる方が自分の益になるからである。 氷河は、ハーデスに対しても沈黙を守った。 ――沈黙するしかなかったのだ。弱みを見せてはならない相手の前で、自分の卑劣に言及しないために。 だが、ハーデスの目的は まさしく それであるらしく、彼は、沈黙という氷河の対抗手段など ものともせず、彼の攻撃を続けた。 「そう。ヒュプノスが申しておったぞ。キグナスは わざとタナトスの拳を受けたのだとしか思えぬとな」 「……買いかぶってもらっては困る。あの時、俺は瞬を庇うのに精一杯で、自分の身を守ることまではできなかったんだ」 「黙秘のあとは偽証か。白々しい嘘を吐くのはやめよ。そなたは、我が身を捨てて、瞬を手に入れようとしたのだ。瞬を庇って わざと傷を負い、その傷で瞬を そなたに縛りつけようとした」 「……」 ハーデスが何を言おうと、そんなことはどうでもいい。 だが、瞬に知られるのは困る。 どうすれば瞬の前でハーデスの口を閉ざさせることができるか、氷河は ハーデスの言葉を聞き流しながら、それだけを考えていた。 「これだから人間というものは油断できぬ。欲しいものを手に入れるためになら、弱い振りも苦しんでいる振りも平気でする。余には、そなたが化け物に見えるぞ。欲しいものを手に入れるために すべてを投げ出し、すべてを利用する貪欲で冷酷な化け物。そなたは、この世界に醜悪な化け物を次々に生み送った 天を摩する巨大な怪物テュポーンのようだ」 ハーデスの糾弾は続く。 どうすれば、この饒舌な神を黙らせることができるのか。 その方策を思いつけないことに、氷河は苛立ち始めていた。 「そなたは、聖戦を利用し、タナトスを利用し、ありとあらゆるものを利用して、瞬の心を自分に向けようとしている。神である この余までを利用して、瞬を我が物にしようとしている」 『やかましい、静かにしろ!』と、いっそ氷河は冥府の王を怒鳴りつけてしまいたかったのである。 それで静かになってくれる相手なら、どんなにいいか。 ハーデスが死のような静寂を愛する男だったなら、どれほど自分は冥府の王に対して好意を抱けたことか。 そんな無意味な仮定文しか思いつけない自分に腹が立つ。 氷河は、頭痛を覚えるほど立腹していた。 うるさい神と、その神を黙らせることのできない自分に。 「そう 嫌そうな顔をするものではない。余は褒めているのだ。実に見事な執念だとな。そなたの やりようを快いとも感じている。瞬に対する そなたの執着は、余の瞬の価値を高めるものだからな」 「――好きに勘繰ればいい。だが、もし そうだったとしても、貴様に俺を責める権利があるのか? 貴様だって、地上世界と人類を人質にとって、瞬を自分のものにしようとしているじゃないか」 おまえは、『同じ穴の狢』という言葉を知っているか。 そういう話題でなら、会話の相手をしてやってもいいと、氷河は思っていたのである。 白鳥座の聖闘士の弁解のできない卑劣の罪を 一方的に並べ立てて 悦に入っているハーデスと、どうしても言葉を交わさなければならないというのなら。 ハーデスは、神である自分が、人間ごときと同じ穴に住んでいることなど ありえないと思っているようだったが。 「これまでの聖戦で懲りたのだ。余の魂の器に選ばれた者たちは皆、無理に身体を支配しようとすると、必ず余に抵抗してきた。瞬の身体を確実に手に入れるためには、まず瞬の心を手に入れることが必要。余を受け入れると決意させた上でなければ、余は瞬の身体を完全に支配することはできない」 「瞬が貴様なんかに心を渡すなんてことは――」 「瞬は結局、余を選ばないわけにはいかぬだろう。余に逆らうと、地上に はびこっている人間たちは すべて死に絶える。そのような事態を看過することは、アテナの聖闘士にはできぬことであろうからな。瞬は瞬の意思で 余を選ぶのだ。そなたのしたことは、無駄な足掻き。瞬の心に迫るものは、そなたの これみよがしの傷や失明という不幸ではなく、偽りの苦悩などでもなく、全人類の命。瞬は結局は余のものになるしかないのだ。瞬は、地上の平和と安寧、そこに生きる人間たちの命を守るために戦うことを第一義とする アテナの聖闘士なのだから」 地上に生きる者たちの命を守救うためになら、瞬は、たとえ自分がアテナの聖闘士でなかったとしても、ハーデスの脅しに屈するだろう。 だが、それは、そうして瞬の身体を手に入れたハーデスが、本当に地上にある命たちに危害を加えないという確証が得られた場合のことである。 瞬に その確証を与えることがハーデスにできるとは、氷河には思えなかった。 「そんなことはさせない! そんなことにはならない! 瞬は俺のものだ!」 ハーデスに向かって そう叫んでから、軽く唇を引きつらせ 「俺たちのものだ」 と言い直す。 氷河の律儀な訂正を、ハーデスは鼻で笑った。 「不本意な訂正などするものではない。いずれにしても間違っている。瞬は、そなたのものではない。そなたたちのものでもない。余のものだ。余の手の中に、地上の人間たちの生殺与奪の権がある限り」 「それも間違っているな。瞬は 貴様の脅しには屈しない。貴様は自分で言っただろう。瞬の身体を手に入れるためには、まず その心を手に入れなければならないのだと。瞬を本当に自分のものにするには、その心を掴むしかない」 ハーデスは、自身が告げた言葉を忘れていたわけではないようだった。 そして もちろん、自分の言葉に矛盾がうるとも思っていない。 それは“矛盾”ではなく――ハーデスが手に入れようとしている瞬の“心”は 瞬の屈従の決意で、瞬の愛や信頼ではない――ということのようだった。 冥府の王は、その是非を問わず、なりふりも構わずに瞬の愛を手に入れようと足掻いている氷河を嘲笑った。 「そのために、そなたは、己が身を傷付け、傷付いた振りをし、生者と死者の間で苦悩している振りをし、瞬に己れの弱みを これみよがしに見せつけ、瞬の同情を引こうとしたわけか」 「瞬を俺のものにするためになら、俺は何でもする。何でも利用する。神だろうが俺自身の命だろうが。瞬を失えば、俺は、自分が この生者の世界に生きて存在する意味を失う。命に未練を持てなくなる。俺は瞬なしでは生きていられない。だから、瞬を失わないために何でもする。どんな卑劣もどんな無様も、俺は厭わない」 「そのような心の働きを、人間たちは恋と呼ぶそうだが――呆れるほど低次元の欲だな。余には理解できぬ」 「何とでも言え。俺が生きているためには瞬が必要なんだ。それを欲しがって、何が悪い」 「人間というものは、欲の塊りだな。欲の化け物だ。欲に目が眩んで、まともな判断力を失っている。瞬を手に入れるために そなたが為した卑劣や偽りが、人を信じる心を瞬から奪うことになるとは思わぬのか」 「……なに?」 「そなたの卑劣と偽りを知れば、瞬は人間そのものを信じることができなくなるだろう。信じている仲間でさえ 裏切るのだ。見知らぬ他人など、なおさら信じることはできぬし、命をかけて守る価値もない。そなたの情熱的な偽りによって、瞬はその事実に気付くであろうよ」 「……」 氷河は確かに まともな判断力を失っていた。 その可能性に思い至っていなかった。 己れの卑劣や偽りが 瞬の心に人間への不信を植えつけることになる可能性、人間への不信が 瞬の心を冥府の王に傾かせることになる可能性に。 自分と同じように、冥府の王も瞬の愛と信頼を手に入れようとしているのだと誤解していたせいで、ハーデスもまた自分と同じように、瞬を悲しませたり絶望させたりするようなことはできないだろうと、氷河は思い込んでいた。 だが、ハーデスが手に入れようとしている瞬の心は、そんなものではなかったのだ。 「さあ、人間という下劣な生き物に、これ以上 裏切られたくなかったら、余のものになるのだ。その清らかな魂、心、面差し、肢体。醜悪な人間に汚されてしまう前に、余のものになるのだ。そうすれば、そなたは永遠に清らかなままでいられる。誰に裏切られることもなく、どんな汚れも傷も負うことなく、人間の醜さも知らずに済む。美しく幸福な者であり続けられる。これ以上 人間界に留まっていれば、そなたは いつか必ず不幸になるだろう。アテナの聖闘士でさえ――そなたの仲間でさえ、これほど汚れに満ち、偽りに満ち、醜いのだ。人間は皆、欲でできた化け物だ。人間界に留まれば、そなたまで いつかはそんな醜悪な化け物になってしまう。今は清らかな そなたも、いつか この男のように汚れ傷付き醜くなる。そんな醜悪な化け物になりたくなかったら、今すぐ 余と共に、この汚れた世界を立ち去るのだ。瞬、そなたのすべては余のものだ。余は、この男のように そなたを欺いたりはせぬ」 ハーデスが欲しいものは、瞬の愛や信頼や優しさではない。 だから、彼は、そんなことも言えたのだろう。 瞬を傷付け悲しませる、そんな言葉を。 瞬がそこに来ていた。 |