アテナ神殿の玉座の間には、扉というものがない。
冥府の王と白鳥座の聖闘士のやりとりを 瞬が聞いていたのは間違いなかった。
星矢と紫龍が、瞬の後ろに 呆然と突っ立っている。
強大な力を持つ漆黒の不吉な化け物が、瞬を その仲間から奪おうとしているのだと思っていたのに、瞬を奪おうとしている化け物が この聖域に もう一人いたことに、彼等は驚愕としているようだった。
まさに 獅子身中の虫――その身の内に、聖域が一頭の巨大な化け物を飼っていたことを知らされて。

アテナの聖闘士でありながら、氷河は、地上の平和も人類の存続も 全く意に介せず瞬をしか見ていない。
おそらく氷河は、瞬がそれを望んでいるから、瞬の心を手に入れるために、自分もそれを望んでいる振りをしていたのだ。
瞬の心を手に入れるために、氷河は 地上の平和と人類の存続を願うアテナの聖闘士の振りをしていた。
星矢たちには そうとしか思えなかったのである。
地上に生きる人間たちを根絶やしにしようとしている冥府の王と、その傲慢さで対等に渡り合っている氷河の狂気を見せられて。

「お……おまえが瞬を好きなことには薄々気付いてたし、俺だって、瞬をハーデスなんかに取られたくないって思ってるけどさ。氷河、これはやりすぎだって。わざと失明した? やりすぎだって。瞬をおまえのものにするためでも、瞬をハーデスに渡さないためにでもさ、それで瞬を泣かせてどうするんだよ!」
「ハーデスだけでなく、おまえも――二人共間違っている。ハーデスはともかく、おまえまで間違ってどうするんだ」
「……」

星矢の声も紫龍の声も、氷河の耳には聞こえていないようだった。
瞬の姿を視界に映し、氷河は自身の企みを瞬に知られてしまったことに動揺し、そして、自分が今どう動くべきなのかを思いつけずにいる――ように、星矢たちには見えた。
やがて、氷河の瞳に恐怖の色が浮かんでくる。
おそらくは、瞬を失うことを恐れて。

瞬は氷河を見詰めていた。
その視線の先で、氷河の恐怖が 徐々に後悔と罪悪感に変わっていく様を認め、星矢と紫龍は、氷河にはまだ救いがあるようだと思ったのである。
氷河は まだ完全な化け物にはなりきってはいないようだと。

「瞬。人間とはこういうものだ。アテナの聖闘士といっても、この程度のもの。そなたの清らかさや優しさを向ける価値もない。そなたは余の許でしか、その清らかさを保つことはできないのだ」
「僕は清らかな人間でいたいなんて、望んだことはないよ」
「なに?」
瞬の前で何も言わず、弁解もできず、ただ苦しげに仲間の姿を映している氷河の瞳の中に、瞬は何を見い出したのか。
それは、氷河にも星矢たちにもわからなかった。
瞬が、勝ち誇っているハーデスの上に ゆっくりと視線を巡らす。

「あなたは清らかなものが好きなの?」
「無論。どんな汚れもなく、どんな傷も負っておらず、完全に清らかな心と身体、完全に美しい心と身体。余にふさわしいものは――」
「そんな人間、いないよ」
瞬が、短く、ハーデスの言葉を遮る。
そうしてから、瞬は、冥府の王の前で小宇宙を静かに燃やし始めた。
瞬の、ささやかで温かく 全く攻撃的でない小宇宙には、ハーデスも脅威を感じることはできなかったようだった。
だが、聖闘士の小宇宙は“敵”を倒すために燃やされるものという認識でいるハーデスには、瞬が自分の前で小宇宙を燃やしているという状況が、そもそも不愉快でならなかったらしい。
そういう顔をして、ハーデスは瞬に問うた。
「瞬、余に逆らうか」

星矢たちは――氷河も――そうではないことに気付いていた。
瞬は、まだ・・誰にも危害を加えていない“敵”を攻撃するようなことはしない。
ここで、『あなたが現われなければ、氷河はこんなふうにならなかった』と、ハーデスを責めることすら、瞬にはできない。
瞬は よほどのことがない限り――仲間や、無辜むこの一般人が理不尽に傷付けられるようなことでもない限り――罪は自分の内にあると考えるタイプの人間なのだ。
そして、瞬の仲間たちが、瞬は自分を傷付けるつもりでいるのだと気付いた時には遅かった。
天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士、白鳥座の聖闘士が、ほぼ同時に、瞬の小宇宙を打ち消そうとして動いた時には既に、瞬の顔は血を吹いていた。

「瞬っ!」
もちろん、それは、氷河やハーデスの同情を引くために為されたことではなかっただろう。
彼等の心を手に入れるために為されたことでもない。
だが、ともかく、瞬は、氷河と同じことを自分の身に為した。
瞬の小宇宙が作り出した小さく鋭い嵐が、左の目を通り、額から頬にかけて、一直線に赤い線を描く。
あまりのことに呆然としている仲間たちの前で、瞬はハーデスに告げた。
「僕は、あなたが思っているようには清らかじゃないよ。人の弱さも醜さも知っているし、それらを受け入れてもいる。だから、あなたを責める気もないし、氷河を責めることもできない。僕の心と身体は傷だらけで、清らかでも美しくもない。もう僕に用はないでしょう。早く どこかに行って!」

ハーデスが僅かに その身を後方に退いたのは、瞬が 完全に清らかな心と身体、完全に美しい心と身体の持ち主でなくなったからではなかっただろう。
そうではなく――瞬の恐ろしいほど強い拒絶の意思を見せつけられて、ハーデスは、瞬を支配することは誰にもできないことを悟ったのだ。
「何を考えているのだ! こんなことをして、何になる。これだから人間というものは!」
瞬を冥府の王の魂の器として使うことは、もうできない。
否、それは最初から不可能なことだったのだ。
「アテナに伝えよ。余をここまで愚弄して、あなたの聖闘士たちが無事でいられるとは思うなと!」
彼にしては明瞭に感情を読み取れる声で、冥府の王が停戦協定の決裂を宣言する。
聖衣を赤い血で濡らし、気丈に自分の足で立っていた瞬は、ハーデスの姿と気配が アテナ神殿と聖域から消え去ったことを認めると、ほっと短い吐息を洩らし、がくりと その場に膝をついた。

「瞬!」
アテナ神殿の石の床に崩れ落ちた瞬の側に駆け寄った星矢と紫龍が 瞬の身体を支えようとしなかったのは、氷河のためだったろう。
瞬に触れることを躊躇していた男が、仲間の無言の厚意に後押しされて、その場に膝をつき、瞬の身体を抱きしめる。
生まれて初めて 春の陽光に触れようとする幼い子供のように おずおずと、氷河は瞬の上体を 両の腕で抱きしめた。

「瞬、すまん。すまない。俺は、おまえに こんなことをさせるつもりは――俺はただ、おまえを誰にも渡したくなかっただけなんだ」
瞬の自傷の目的はあくまで、“どんな汚れもなく、どんな傷も負っておらず、完全に清らかな心と身体、完全に美しい心と身体”の持ち主でなくなった自分の姿をハーデスに見せつけることで、氷河を責めることではなかったらしい。
瞬は自身の小宇宙で その出血を止めていた。
そのために小宇宙と体力を かなり消耗してしまったようで、瞬は 氷河の腕の中でぐったりしている。
涙を流すこともできずに――そんなもので、許しを乞うわけにもいかず――氷河は、自分の腕の中の瞬の前で ただ項垂れ、謝罪するしかなかったのである。
その謝罪の言葉が、結局 自己弁護になってしまっていることに苛立ちながら。

瞬には、氷河を責める気は全くないらしい。
瞬は、氷河のために笑みを作ろうとさえしていた。
「僕はいつだって、氷河の――氷河たちのものだったのに、これからもそうなのに、氷河は どうして自分を傷付けるようなことをするの」
「……」
どうして そんなことをしてしまったのか。
その理由を、氷河は今となっては思い出すこともできなかった。






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