「数千年の昔から振られ慣れているとはいえ、これほど手ひどく振られたのは、ハーデスも初めてのことでしょうね。さすがは私の聖闘士というべきか、あの瞬が よくもここまでというべきか――」 アテナの口調は 極めて明るく、極めて軽快だった。 アテナが、大丈夫だと言い張る瞬を無理に病室の寝台に縛りつけ、玉座の間への出入りを禁じたのは、瞬の顔を飾ることになった壮絶な傷を、彼女自身が見たくないと思っているからのようだった。 そして、同時に、それを瞬の仲間たちに見せないため。 「愛というものは、美しいけれど、危険なものでもあるわね。信頼を生むものでもあるけれど、不安や疑念を生むものでもある。瞬がハーデスのものになるなんて、氷河、あなたは本気でそんなことを恐れていたの?」 「……」 もちろん、氷河は、本気で恐れていた。 であればこそ、彼は、どんな卑劣な手を使っても、瞬を生者の国に――自分の許に――引き留めようとしたのだ。 揶揄のつもりで告げた言葉を 氷河に沈黙で肯定されてしまい、アテナは困った顔を作ることになったのである。 本気で そんな馬鹿げたことを本気で恐れていたと(無言で)告げてくる氷河を、笑うことも怒ることもできなくて。 「とにかく、瞬の顔にあんな壮絶な傷があることは、私の美意識が許しませんから、瞬が何と言おうと、私は瞬の傷は絶対に消します」 「ありがとうございます」 それが瞬のためというより、白鳥座の聖闘士のためだということが、今は馬鹿げた考えから開放された氷河には、すぐにわかった。 そして、自分のためではなく瞬のために、氷河はアテナの決定に感謝したのである。 「問題は、瞬よりも あなたの方なのだけど」 白鳥座の聖闘士の暴走を不問に処すことは、さすがのアテナにもできないことだろう――と、氷河は思っていた。 だが、瞬が その心身に負った傷さえ癒してもらえるのなら、今の氷河には他に何も望むことは何もなかったのである。 氷河は素直に アテナの前に 「どんな罰も受けます。殺されても文句は言わない」 「ええ、ええ。あなたは ここで私に命を奪われても文句は言えないわよ。私としても そうしたいのは山々なのだけど、今このタイミングで あなたをハーデスの国の住人にするわけにはいかないでしょう。それに、そんなことをしたら、私が瞬に恨まれることになってしまうわ。結果的に、あなたがしたことはハーデスの初手を無効にするのに役立ったわけだし――」 「……」 地上の平和より、人類の安寧存続より、アテナの聖闘士としての務めより、自分の恋を優先させた不届き者を処罰する気が、アテナには ないらしい――瞬のために。 結局 自分は瞬に守られることになるのかと、氷河は、その奥歯をきつく噛みしめたのである。 アテナが、そんな氷河を見て溜め息をつく。 そして、彼女は、聖域への反逆者を糾弾する場に ふさわしいとは言い難い言葉を口にした。 「常識で考えなさい。瞬の心を手に入れようと思ったらね、おいしいケーキを出してくれるケーキ屋さんに誘うとか、綺麗なお花を贈るとか、そういうのがいちばんいいのよ。マーマがいなくて寂しい振りをするとか、不本意でも一輝のことを褒めてみるとか、それで あなたに対する瞬の好感度は 飛躍的にアップするの。そんなことは小学生だって知っている常識よ。自分で自分を傷付けて 瞬の気を引こうとするなんて、そんなのは下の下の下のやり方だわ」 「そ……そんなことで、瞬の心が俺のものになるのか……?」 氷河が つい問い返してしまったのは、自分がこの件で罰を受けることはないことを知って、気持ちが緩んだからではない。 アテナの言葉が、氷河には思いもよらないことだったから――だった。 そんな やり方で瞬の目と心を自分の方に向けることができるなどということを、氷河は これまで考えたこともなかったのだ。 「それは瞬に直接訊いてごらんなさい。瞬は、十中八九 その通りだと答えるから」 小学生の常識も持ち合わせていない氷河に、沙織が頷く。 信じ難い顔をしてアテナを見詰め――へたをすると、本気で瞬に直接 訊きに行きそうな氷河に、アテナは嘆かわしげな面持ちで 頭を左右に振った。 「星矢、紫龍。氷河がこんなふうなのは、あなた方のせいでもあるわよ! 仲間なら、適切なアドバイスの一つや二つ――」 「なんで俺たちのせいなんだよ! 沙織さんだって、氷河がここまで馬鹿な男だってことに、これまで気付いてなかったんだろ!」 「まあ、氷河がここまで大馬鹿なことを 私のせいにするつもり !? 」 ひどい言われようだったが、氷河は彼等の意見に異議を唱えることはできなかったのである。 実際 氷河は、自分を馬鹿な男だと思わないわけにはいかなかったし、彼等が白鳥座の聖闘士を馬鹿だ馬鹿だと繰り返すのは、 「星矢、落ち着け。沙織さんも落ち着いてください。馬鹿な男のしたことを、今更あれこれ言っても仕方がない」 と結論づけるためだということがわかっていたから。 馬鹿な男を責めることは無益だというアテナの裁定を、アテナに代わって宣言した紫龍は、そして、そのまま さっさと話題を変えてしまった。 「ともかく、これで結局『振り出しに戻る』ですか」 紫龍の その言葉に、アテナが にわかに真顔になる。 しかし彼女は、すぐにまた その口許に笑みを刻んだ。 「そのようね。聖戦は始まる。でも、ハーデスはもう、自分の野望の実現のために瞬を使うことはできないのだから、勝敗は五分五分――いいえ、我々はハーデスの神衣を奪ったようなものだから、むしろ今は我々の方が優位にあるかもしれないわ」 「それはどうか わかんねーぜ。ハーデスの奴が こんなに こっぴどく振られたのは、これが初めてのことなんだろ。あの不吉野郎は、怒り狂って しょっぱなから飛ばしてくるかもしれない」 「それも大いにありえることだわね」 アテナが やたらと楽しそうに言うので、彼女の聖闘士たちも悲愴になれない。 アテナは、瞬がハーデスをこっぴどく振ってのけたことが愉快でならないらしい。 この時代における聖戦が壮絶な戦いになることはわかっている。 だが、だからこそなおさら、戦いには楽観的に臨んだ方がいいのかもしれない。 楽しそうなアテナの前で、彼女の聖闘士たちは そう思った。 「冥界軍なんて、さっさと倒しちまおうぜ。でないと、氷河が、いつまでも瞬の口説き落としに とりかかれねーから」 「俺には、もう そんな権利は――」 「権利がなかったら諦められるのかよ」 殊勝な顔をして馬鹿なことを言う馬鹿な仲間に、星矢が鋭く突っ込んでくる。 「瞬の甘さは砂糖ごときの比ではないからな。おまえがどうしようもない馬鹿だということくらい、瞬は笑って許してくれるだろう」 氷河の仲間たちは、恋のために愚かな真似をしてしまった男を、寛大にも許すと言っている。 これで賢くならなかったら 俺は本当に ただの馬鹿だと、氷河は思ったのである。 「瞬に許してもらうためになら、俺は、瞬の前で一輝を大絶賛してやってもいい」 氷河にしてみれば、それは まさに捨て身の攻撃。 そして、その攻撃は、賢い男にしかできない種類の攻撃だった。 氷河の決意を聞いたアテナが、心底から楽しそうな笑い声を、熾烈な戦いを控えたアテナ神殿に響かせる。 「氷河ったら、一足飛びに お利口になったこと。その覚悟があるのなら、ハーデスの野望を挫くことも簡単にできるでしょう」 アテナの予言は現実のものとなるだろう。 そう信じて、氷河は、アテナの聖闘士として冥府の王との聖戦に臨む決意をしたのである。 戦いのあとに、今度こそ 賢い やり方で、瞬の心を自分のものにするために。 Fin.
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