「だが、これで我々の目的は達成されたと言っていいのではないか。アンドロメダは、キグナスに嫌われないために、容易に その身をハーデスに受け渡すことはしないだろう。──私には全く理解できない心理だが」
黄金聖闘士たちの中で最初に気を取り直し、黄金聖闘士としてのプライドを いたく傷付けられ傷心している仲間たちを慰撫するという、らしくもない役目を買って出たのは、あろうことか 乙女座バルゴのシャカだった。
彼のプライドは、自分が青銅聖闘士ごときに敗れ去ったという事実を認めること、また 自分がその事実に打ちのめされるという事態を断固として拒否することにしたらしい。
あくまでも傲然と、天上から下界を見下ろす神のごとき態度で、シャカはそう言った。

シャカほどではないにしろ、黄金聖闘士たちはそれぞれに、彼等の実力に ふさわしいプライドを その身に備えている男たちである。
そのプライドのせいで、彼等は、この理不尽な(?)結末に 泣きわめき、地団太踏んで悔しがることができなった。
氷河にとっても、瞬にとっても幸運なことに。
だが、その場には、プライドが高くないことはないのだが、愛する弟のためならば、そんなものは一瞬のためらいもなく捨ててしまえる豪気な男が約一名いたのだ。

「なにが目的は達成されただ! 氷河、貴様、よくも我が最愛の弟に、く……口にするのも汚らわしい不埒な真似をしてくれたな!」
「え? ああ、いや、これには色々と深い訳が──」
氷河が、一輝曰く『不埒な真似』に及んだのには、もちろん深い訳があった。
恋する男は狡猾なものだということ。
狡猾な男は、鬼のいぬ間に 生き馬の目を抜くようなこともする──ということ。
そして、氷河は恋する男だった──瞬に熱烈に恋する男だった──という深い訳が。

氷河が一輝の目を盗んで瞬を口説き落としたことには、決して褒められるようなことではなかったろうが、だからといって それは他人に咎められるようなことでもなかっただろう。
氷河は賢く立ち回っただけなのだ。
しいて氷河の罪をあげつらうとしたら、それは、彼が、彼の恋路の障害となる複数の男たちを追い払うために、一人の最強の男を呼び寄せてしまった──という一事に尽きるだろう。
彼は、彼の最大の敵に、自分が賢い男だということを 自ら ばらしてしまったのだ(そんな愚かなことをする男が“賢い男”でありえるのかどうかという問題はさておくとして)。

「瞬。こっちに来い! そんな汚らわしい男の側にいると、おまえまでが汚れる」
一輝は、彼の最愛の弟の清らかさを守るため、瞬を自分の方に呼び寄せようとした。
彼の弟の清らかさは、何があっても守られなければならないものであるから。
瞬の兄は、そう信じていたから。

ハーデスが その魂の器として“清らかなもの”を求めているのであれば、地上の平和と人類の存続のためには 瞬が汚れてしまった方がいいのではないか――というのは、瞬の兄でない者の考え方である。
清らかな弟は いつまでも清らかなまま守り通したいというのが、瞬の兄には、真夏の太陽の光よりもまっすぐ真っ当で 当然かつ正しい願いだった。

「え……あ……あの……」
『黄金聖闘士か兄か』という選択では、一瞬の迷いもなく兄を選んだ瞬が、兄の指示に従うことに ためらいを見せる。
恋人に腕を掴まれた瞬の視線が兄に向いているのを見て、氷河は瞬に ほとんど命令口調で訴えた。
「瞬、おまえは俺が好きなんだろう? おまえは俺だけのものだな !? 」
瞬は その言葉にすぐ頷いてくれるものと、氷河は信じていた。
瞬は、二人きりでベッドにいる時には、その言葉にいつもすぐに頷いてくれていたから。
だが、瞬は、氷河の恋人であると同時に、幼い頃から『兄の命令には絶対服従』の習性が身に染みついた、弟の鑑たる存在でもあったのだ。

「あ……でも、兄さんが――」
「一輝がどうしたっていうんだっ!」
「だから、兄さんが呼んでるの」
「俺は、行くなと言っている!」
「氷河、どうして、そんな意地悪 言うの」
「俺が意地悪だとっ !? 」

人を呪わば 穴二つ。
氷河が召還した 対黄金聖闘士用の障害物は、そのまま氷河にとっても強力な障害物だった。
少し考えればわかることだったのに――これは諸刃の剣になる秘策と わかっていたつもりだったのに――氷河は、目の前の目障りな羽虫の群れを追い払うことにばかり気をとられ、自分が呼び寄せたスズメバチの毒が自分にも有効な毒だという事実を、今の今まで失念していたのだ。
自分を兄の許に行かせてくれない氷河に業を煮やした瞬が、氷河に腕を掴まれたまま、兄のいる方へと移動を開始する。
つまり、瞬は、氷河を引きずって兄の許に移動し始めた。
瞬の力に逆らいきれない氷河と一輝の間の距離が、徐々に狭まっていく。

そんな恋人たちのやりとりを見せられて、黄金聖闘士たちは一様に、多大な不安を その胸中に抱くことになってしまったのである。
瞬の自称恋人は、たかが(と言っては何だが)一人の人間の許に駆け寄ろうとする瞬の行動を阻止できないでいる。
氷河が 瞬を守り抜かなければならない毒牙の持ち主は、人間のそれを はるかに凌駕した力を有する強大至極な神だというのに。

「おい、あんな恋人で、本当にハーデスに対抗できるのか?」
「う……うむ……」
可愛い弟子のこととて、その力を信じてやりたいのは山々だが、小姑一人に 無様にてこずっている弟子の無様な姿を見せられてしまっては、カミュといえども、胸を張って大丈夫と言い切ることはできなかった。
金色の仲間たちの前で、氷河の師が、トレードマークの二股眉毛を思い切り曇らせる。

「大いに不安ではあるが、我々には もはや氷河に賭けるしか道がない」
「あんなヒヨコの肩に、人類の命運が委ねられることになるのか」
「いや、ヒヨコには そもそも肩がないのではないか」
「おい、ちっとも安心材料になっていないぞ!」
身体を張り 命を張って守り続けてきた地上の平和。
それが今や風前の灯なのである。
牡牛座タウラスのアルデバランが、頼りない弟子を育てあげた水瓶座アクエリアスのカミュを頭ごなしに怒鳴りつけてしまったとしても、それは致し方のないことだったろう。
実際に声に出して騒がないだけで、その場にいた黄金聖闘士は全員が(含むカミュ)、途轍もない不安にかられていたのだから。

これ以上ないほど不安で不穏な空気が、教皇の間に満ち満ちた その時だった。
彼等のアテナが教皇の間にやってきたのは。
それが恋情に支配された小宇宙であれ、憤りで作られた小宇宙であれ、不安一色の小宇宙であれ、ともかく強大な小宇宙を有する黄金聖闘士が11人も集まって、それぞれの小宇宙を拡散させ、あるいは淀ませていたのである。
教皇の間から立ちのぼる奇天烈な小宇宙を奇異に思って、彼女はアテナ神殿から出てきたものらしかった。

「あなたたち……」
「アテナ」
黄金聖闘士たちが一斉に床に片膝をついて、彼等の女神を出迎える。
その中に、この場にいるはずのない者たちの姿を認め、アテナは切なげな表情になった。
「ついにハーデスが動き始めたのですか」
アテナが、悲痛な目で黄金聖闘士たちを見やる。
そうしてから、アテナの苦悩の色を帯びた視線は 青銅聖闘士たちの上に移動した。
その視線の意味が、黄金聖闘士たちにはわかっていた。
サガが その顔をあげ、彼の女神を仰ぎ見て 言う。
「ご心配には及びません。青銅聖闘士たちは必ずや アテナのご期待に沿うことでしょう。我々黄金聖闘士が全員、全力で この者たちを守ります。彼等を戦いから遠ざけ、安全な場所に置きたいと願うアテナのお気持ちはわかりますが、彼等はもう戦いの ただ中にいるのです」

「俺たちを安全な場所に……?」
海王ポセイドンとの戦いの後、急に青銅聖闘士たちに よそよそしくなり、彼等に聖域への出入りを禁じたアテナ。
『黄金聖闘士がいれば、自分たちは もう用無しということなのか』と考え、青銅聖闘士たちは、彼女の そんな態度に少なからず傷付いていた。
今 アテナの真意を初めて知らされて、青銅聖闘士たちは誰もが、彼等の女神の深い思いに 胸を突かれるような感動を覚えることになったのである。

最初に口を開いたのは瞬だった。
「大丈夫です、アテナ! 僕は絶対にハーデスの言いなりになったりなんかしません。僕の命はアテナのものです!」
瞬が、瞬にしては珍しく――その実、いかにも瞬らしく――きっぱりと断言する。
瞬のその力強い断言は、黄金聖闘士たちの中に 大きな どよめきを生むことになった。

「おお、そうだ、アテナがいらした。アテナなら、なるほど キグナスより はるかに頼りになる」
「うむ。アテナがいらっしゃる限り、アンドロメダがハーデスの力に屈することはないだろう。聖域と地上の平和は必ず守り抜かれるのだ」
「なぜ そんな当たりまえのことに、我等は気付かずにいたのだ」
「これで我等も、後顧の憂いなく、死者の国に戻れるというもの」
「ああ。憂いなどあるものか」

アテナの存在と、そのアテナへの瞬の忠誠。
瞬の恋人としての氷河の力には疑念を抱かずにいられなかった黄金聖闘士たちも、その二つの力の強さには疑いや不信を挟むことができなかったのだろう。
おそらくは、その確信ゆえに――この場にいるはずのない者たちの姿が徐々に薄れ透き通り始める。
そうして、死してなお 地上の平和を願い続ける黄金聖闘士たちの姿は、やがて完全に生者の世界から消えていってしまったのだった。

地上は必ず守られる。
アテナの聖闘士がハーデスに屈することはない。
そう信じたからこそ――確かな希望を得ることができたからこそ――サガたちは、冷たく寂しい死者の国に戻っていくこともできたに違いなかった。
死せる黄金聖闘士たちの姿が消えた教皇の間に残された者たちは、そう信じた――そう信じることができたのである。
そう信じる聖闘士たちの瞳にもまた、今は明るい希望の輝きが宿っていた。
ただ一人、瞬の恋人としての面目をすっかり失ったていの某白鳥座の聖闘士を除いて。






Fin.






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