迷いの扉

〜 雪狼さんに捧ぐ 〜







白の他には 僅かに青だけがある世界。
そこは そういう場所だった。
空には白い霞のような雲があり、どちらかといえば 青空というより水色の空といった風情。
地上には白い雪と氷しかなく、彼方に見える針葉樹の森も白い雪でできた小山に見える。
更に その向こうにある本物の山は、それこそ本来は白い雪のヴェールに覆われているはずなのだが、二人が立っている雪原からは ごく薄い紺色に見えた。
だが、遠くにあるせいで、有色が世界に占める面積はあまりに小さい。

小学生に この光景を絵に描けと言ったなら、その子供は赤や黄色の絵の具を使えないことに、さぞかし不満を覚えることだろう。
洒落っ気のある子供なら、白い画用紙をそのまま教師に提出して、『描けました』と得意げに言うかもしれない。
そして教師は 子供の怠惰を叱ることなく、地上の光景を描いた絵として その白い画用紙に評価を与えなければならなくなる。
それほどに――そこは他のどんな色もない純白の世界だった。

「氷河って、こういうところで修行していたの……? 恐くなかった?」
氷河が修行をした場所を見たいと言い出したのは瞬だった。
この時季に行っても見るべきものは何もないぞと 氷河が告げると、瞬はかえって興味をそそられたらしく、その“見るべきものがない”場所が見たいのだと言い募った。
そうして やってきた真冬のシベリア。
そこでの瞬の第一声は、氷河の想定の内にはないものだった。
この純白の世界を見たら、瞬は『綺麗』と感嘆するか、あるいは『本当に何もないんだね』と呆れるか、そのいずれかだろうと 氷河は思っていたのである。
『恐い』という瞬の言葉は、氷河には想定外のものだった。

「恐い?」
それはいったいどういう“恐さ”なのか。
この何もない世界を見て、瞬はいったい何を恐いと感じたのか。
ちょっとした油断で命を落としかねない自然の過酷さを思ったのか、あるいは 虚無が精神に及ぼす脅威に怯えたのか。
瞬の発言の意図が、氷河にはわからなかった。
氷河自身は、この世界を『恐い』と感じたことが一度もなかったので。

「恐いとはどういう意味だ?」
とはいえ、瞬の感性は理解したい。
理解できないまでも、知っておきたい。
氷河は、瞬に その言葉の意味を尋ねた。
尋ねられた瞬は、だが逆に、氷河がそんなことを尋ねてきたことに驚いたらしい。
一度 大きく瞳を見開き、そうしてから瞬は ひどく切なげな溜め息を洩らした。
「小さな しみ一つも目立ちそうな、こんなに綺麗なところで、戦いのための――人を傷付けるための技を身につけ、汚れていくんだよ。氷河は恐くなかったの? こんな汚れのない綺麗な世界に生きて存在する権利が自分にあるのかって、僕なら自信を失いそうになる」
「……」

知ることはでき、理解することもできたような気がするが、共感はできない。
しかし、今ばかりは 共感できなくてよかったと、氷河は思ったのである。
戦いのための技を身につけることを汚れと感じ、罪とすら考えているような瞬の心に共感できてしまったら――二人が二人共、その汚れを恐れる感性の持ち主だったなら――自分たちがアテナと聖闘士として精神的に共倒れになることは必至。
戦いのための技を身につけることは、愛する人を守る力を手に入れること、ゆえに それは罪でも汚れでもないと考えることのできる自分を、氷河は瞬のために“良し”と思った。

「今は 他の色を拒絶しているようにも見えるが、ここも 春になれば雪も溶けて、大地が顔を出し、花も咲く。春のシベリアは美しいし優しいぞ」
『おまえと争うほどに』という言葉を続けたかったのだが、氷河はそんな自分の気持ちを抑えることに かろうじて成功した。
瞬はうぬぼれることができない性質らしく、氷河が睦言のつもりで口にする賛美の類を 本気で嫌がり、忌避しようとする。
人に褒められることに、瞬は罪悪感を覚えることさえあるようだった。
氷河が失言(?)した際に 嫌忌の念を はっきり表に出すことはしなかったが、瞬は素直に喜ぶこともしない。
氷河には それが瞬に対して感じる唯一の不満だった。
その点を除けば 瞬は文句のつけようがないほど魅力的な恋人で、氷河は自分が瞬を手に入れたことを人生最大の僥倖であり功業であると思っていた。

「あ、そっか……そうだね。1年中 こんな恐い光景を見ているわけじゃないんだね。花も咲くんだ。なら、雪が消えたら また二人で来たいね」
「ああ」
瞬がやっと笑顔になってくれたことに安堵して、氷河は瞬に頷いた。
「だが、おまえが純白の世界を恐がるとは意外だな」
「だって、こんな真っ白――小さな汚れも過ちも罪も 浮かび上がらせて、否が応でも見えてしまうし、見られてしまうし――」
「大丈夫。そんな心配をしなくても、おまえは綺麗だ」

言った途端――否、最後まで言い終える前に、氷河は己れのミスを後悔した。
これなら、春のシベリアの光景を瞬の姿に重ねて『美しい』と言ってしまっていた方が まだましだったと思う。
罪のなさ、汚れのなさ、内面の美しさを褒める類の言葉は、瞬が最も嫌がるものだった。
もちろん、だからといって、瞬は あからさまに不快の感情を表に出すことはしないし、氷河を責めることもしない。
そういう時、瞬は ただ つらそうに瞼を伏せるだけだった。

今日も瞬は、いつも通りの反応を示した。
失言した恋人を責めることはせず、逆に その立場を思い遣って、無理に笑顔を作り、子供のように拗ねた素振りを見せる。
「氷河は身贔屓が激しいから信じられない」
瞬は、からかうようにそう言って、わざと大きな所作で横を向いてしまった。

迂闊な発言で 瞬に責められたことはない。
だから氷河は、瞬に自分の迂闊の弁明をすることはできなかったし、賛辞を失言と感じる瞬の感性の矯正に取り組むこともできないのだった。
その事実はいつも氷河をやるせない気持ちにさせた。もちろん、今日も。
だが、瞬が『恐い』と感じる世界の中心で、暗く落ち込んでもいられない。
だから――氷河は自らに 軽薄な恋人の役柄を割り振ることにした。
「身内に厳しい奴なら、既に一輝がいるからな。俺は、別方面から おまえにアプローチしなければならなかったんだ」
言いながら瞬を抱き寄せ、抱きしめて、その唇にキスをする。
瞬は素直に応じてきた。

「だから、氷河はいつも僕に優しくて、甘くて、僕が何をしても許しちゃうの?」
「おまえの周りにはいなかったろう? そういう甘いだけの男は」
唇と唇が触れ合うほど近くで言葉を交わす。
瞬に比べれば はるかに大雑把にできている氷河が、聖闘士としては もちろん 一般人としても内罰的すぎ繊細すぎる瞬を 疎ましく感じることなく、その関係が続いているのには、この手のスキンシップに非常に素直な瞬の性向が一役買っていた。

聖闘士になるための修行が まず肉体と運動神経を鍛えるところから始まったせいもあるのだろうが、一般の繊細でメランコリックな人間とは違って、瞬は肉体の持つ力を軽視することがなく、その触れ合いを軽蔑することもない。
些細な落ち込みからなら、氷河が手を握り体温を移してやるだけで、瞬はすぐに浮上してくれた。氷河と付き合う・・・・ようになってから、自分のそういう性向をはっきり自覚するに至ったらしい瞬は、今では、初めての夜の臆病が嘘だったように 二人の触れ合いに積極的。
それでも、一見した瞬の印象が清純純潔であり続けるのは、瞬が肉体の触れ合いを心から欲しているからで、それが肉体自体から出る欲望ではないからなのだろうと、氷河は思っていた。
ともかく、その点でも、瞬は氷河にとって理想的な恋人だったのである。

その理想の恋人が、氷河の軽口を真面目に考え込む素振りを見せる。
そうして、瞬は、
「そうなのかも……」
と、氷河の軽口を事実と認めるように言い、
「僕、誰かに甘やかされたかったのかなあ……」
と、自身に問いかけるように小さな声で呟いた。
瞬はそれを“よろしくないこと”――少なくとも“感心できないこと”と考えているようだったが、瞬は人に甘やかされるくらいでいいのだと、氷河は思っていたのである。
むしろ その方が望ましいとさえ、氷河は思っていた。

瞬には これまでの人生が過酷すぎたのだ。
幼くして両親を失ったことは 誰の身にも起こり得ることであるから致し方のない不幸とするとしても、瞬は その後、周囲に“優しい大人”に全く恵まれなかった。
しかも、瞬の側には、そういう運命や境遇に反発することで自我を守ろうとする兄がいた。
瞬としては、そんな兄が完全に社会から弾き出されてしまわないように緩衝の役目を果たす弟にならざるを得ず、結果として瞬は、兄と社会の両方に同時に従順で受動的な性格を養うことになった。
だというのに、主に兄との関係によって その人間性を養ってきた瞬を、心無い大人たちは兄から引き離してしまったのだ。
幼かった瞬の自我が崩壊してしまわなかったことは、奇跡だったと言えるだろう。
奇跡を起こして聖闘士にまでなった瞬に、だが、今現在も 人生は冷たい。
人を傷付けることが嫌いな瞬に戦いを強いる。

だから――瞬は、せめて恋人くらいには甘やかされていた方がいいのだ。
瞬が求めているものが“自分を甘やかし、優しくしてくれる人”であっても、“肉体の触れ合いを与え、満たしてくれる人”であっても――その程度のものにすぎなくても―― 一向に構わないと、氷河は思っていた。
瞬に本当に愛されていなくても、必要とされているなら それでいい――と。
それだけでもいいと思えるものを、瞬は氷河に与えてくれていたから。






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