そうしようと思えば自分の周囲を春にすることもできる瞬の小宇宙は 感じ取れていた。
だが、その小宇宙がどこから流れてくるのかが わからないことに、氷河は焦り混乱していたのである。
凍りついた雪は、瞬の足跡を印す親切もしてくれなかった。
家に帰るための目印だったパンくずを見失ったヘンゼルのように、氷河は雪と氷と風が作った丘の頂に辿り着いては、その向こうに瞬の姿を見付け出せずに落胆するという行為を繰り返していた。

まるで異次元から細く洩れ流れてきているようだった瞬の小宇宙が、ふいに、地上で呼吸を始めた――ような気配を感じて、氷河は その気配がする方に視線を巡らしたのである。
それは、氷河の背後――彼が瞬を探して駆けてきた雪の途中に立っていた。
北の大地を覆っている白いものが 雪や氷ではなく、春の花々であるかのような温かい目をして。

「瞬、どこに行っていたんだ! こんな薄着で!」
他の聖闘士ならいざ知らず、春の小宇宙を生み出すことのできる瞬に、その薄着を責めることはナンセンスなことだったろう。
実際、薄手のブラウスを一枚 羽織っているだけの瞬は 凍えているようには見えなかった。
真冬のシベリアの早朝――気温は氷点下15度ほどしかなかったのだが。

「心配かけちゃった……? ごめんなさい。シベリアの星が見たくなって、こっそり抜け出したの。すごく綺麗で――星空がこんなに綺麗なんだったら、きっと夜明けも綺麗だろうって思って、陽が昇るのを そのまま外で待ってたんだ」
「そのまま外で――って……」
「太陽の光が地上を照らし始めた時、すごく綺麗だったよ。ほんの1、2分だけ、空も大地も白光で染まって、空と大地の区別がつかなくなって、完全に純白の世界になって……本当に綺麗だった――」
「瞬、せめて俺に一言 声をかけてから――」
綺麗な夜明けを見たいからといって、なにも一晩中 外で朝を待つことはないではないか。
凍え死ぬ心配がないとわかっていても、無断外泊した恋人を、無断外泊された恋人が心配しないはずがないというのに。

「だって、氷河ってば、魔法をかけられたオーロラ姫みたいに ぐっすり眠ってて、起こすのは忍びなかったんだよ」
「だったら なおさら、キスで起こしてくれるのが礼儀というものだろう」
「え……? あ、そっか。そういう起こし方だったら、氷河も機嫌よく起きてくれてたかもしれないね。今度からそうするね」
だから怒らないでと甘えるように、瞬が氷河に身体をすり寄せてくる。
それで氷河は、瞬の無断外泊を責めることができなくなってしまったのだった。

「昨日は恐いと言っていたじゃないか」
瞬の身体を抱きしめ、その髪に唇を押し当てて 囁く。
氷河の腕と胸の中で、瞬は小さく首をかしげた。
「そう? どうしてそんなふうに思ったんだろう……。こんなに綺麗なのに」
「おまえのように」
意識して――というより、こういう場合の恋人の礼儀として・・・・・、氷河は つい そう言ってしまっていた。
そして、いつものように、一瞬 遅れてから、自分の迂闊に気付く。
長幼の序や礼儀礼節を“敵”に対しても採用する瞬が、氷河のこの礼儀だけは快く思わない。
瞬は、氷河に『綺麗だ』と言われるたび、『違う』と言いたげに瞼を伏せるのが常だった。
だが、今日に限って、瞬は そのいつもの反応を示さなかったのである。
瞬は、今朝は、その身にまとっていた小宇宙を 更に温かいものにし、氷河の“礼儀”を嬉しがる気配さえ見せた。

その反応に戸惑って、氷河は、瞬を抱きしめていた腕から僅かに力を抜いてしまったのである。
その一瞬の隙を突いて、瞬は氷河の腕と胸から すり抜け、半歩分だけ氷河から離れた。
そして、甘え拗ねている恋人の表情を浮かべ、瞬は、
「氷河って、誰にでもそういうことを言うんでしょう。人に綺麗だってお世辞を言うのが癖になってるんだ」
と言って、氷河を責めてきた。
頬を薔薇色に上気させている瞬の瞳は、どんな憂いも たたえておらず明るい。
瞬は、恋人の賛美に恥じらっている幸福な恋人そのものの姿をしていた。

「癖というより 条件反射だな。だが、俺は誰にでもそんなことを言うわけではないぞ。与えられる条件が おまえでないと、俺は『綺麗』なんて言葉は思い出しもしない」
「それは どうだか」
からかうように言って、瞬が氷河に背を向け、眠り姫の城に向かって駆け出す。
軽快で明るい、そのフットワーク。
その時、その明るさに、ほんの一瞬、何かが変だと、氷河は小さな違和感を覚えたのである。
だが、今 その訳を問い詰めてしまったら、瞬はいつもの悲しげに瞼を伏せる瞬に戻ってしまうかもしれない。
瞬の屈託なく明るい笑顔を消すようなことはしたくない。
1秒でも長く、瞬に笑っていてほしい。
その気持ちに負けて、氷河はその時、平生の瞬らしくない明るさの訳を、瞬に問い質すことができなかったのだった。






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