今度は昼間にも“見るべきもの”がある春に来ようと言って、日本に戻った二人の前に横たわったのは、相も変わらない戦いの日々。
シベリアを出る時には ほがらかだった瞬の眼差しは、アテナと聖域に敵対する者たちを倒し、勝利を重ねるにつれ、再び少しずつ沈鬱の色を濃くすることを始めた。
そのこと自体には、氷河は不快や焦慮に類する感情を抱くことはなかったのである。
敵を傷付け倒すたびに、自身が傷付く瞬を痛ましく感じ、瞬の心を傷付ける敵と その状況には腹立ちも覚えたが、ある意味では それはいつものことだったから。
そんな時には、氷河は、瞬の傷付いた心を抱きしめ、瞬の涙を拭ってやればよかった。
どれほど傷付いても、アテナの聖闘士であり、アテナの聖闘士の戦いの意味を知っている瞬は、それで 氷河や仲間たちに支えられ、再び新たな敵に立ち向かっていく。
それは、これまでの瞬と何も変わらなかったのだ。
氷河が瞬に小さな違和感を覚えたのは、そんな戦いが一つ終わった ある日のことだった。


今回も無事に守られたアテナの御座所たる聖域は、暮れなずむ時間の中に 静かな佇まいを浮かびあがらせている。
アテナ神殿が建つ高台から聖域の十二の宮を見おろしながら、瞬が呟いた小さな声が、氷河に奇妙な違和感――不自然――を感じさせたのだった、
「あの人たちは、どうしてアテナに敵対するんだろう。彼等は平和を望んでないの……」
瞬の言う『あの人たち』が、これまでアテナの聖闘士たちが倒してきた者たち、これからアテナの聖闘士たちが倒す者たちを指していることは、氷河にもすぐにわかった。
そして“僕たち”とは違う“あの人たち”が存在することを、瞬が悲しんでいることも。

「奴等には奴等の思い描く平和や幸福の図があるんだから仕方がない」
「でも……幸福ならともかく、平和の定義が人によって違うなんてことがあるのかな。平和って、争いのない状態のことでしょう」
「……」
この地上に“戦い”が存在することが得心できない――というような目で そう告げる瞬を、氷河は瞬らしくないと思ったのである。

平和と戦いが そんな単純な関係にあるものでないことは、瞬も知っているはずだった。
その事実が生み出す戦いを、瞬は嫌になるほど経験もしてきている。
聖闘士になる以前も、聖闘士になってからは なおさら――瞬は ほとんどすべての時間を戦いの中に身を置いて過ごしてきたのだから。
戦いを厭いながら、戦いを肯定しなければならない世界と時間に、瞬は身を置いてきた。
“あの人たち”には“あの人たち”の望む幸福と平和があり、アテナの聖闘士たちとは異なる夢や理想を その胸に抱いている。
もちろん、彼等なりの欲もある。

“僕たち”が抱くそれらとは異なる、“あの人たち”の幸福、平和、夢や理想、そして欲。
それらが完全に邪悪で完全に間違ったものではないから、アテナの聖闘士たちの戦いには痛みや悲しみが つきまとうのである。
“敵”の中にも愛や優しさや守るべき人があるという事実が、瞬を悲しませ傷付ける。
“敵”が完全に邪悪なものだったなら、瞬も戦いのたびに傷付くことはないはず――傷付くことはなかったはずなのである。

“あの人たち”は完全に邪悪な者たちではない。
そんなことは、瞬には既知のことのはず。
聖闘士になり最初の敵を倒した時に、瞬は気付いたはず。
だから、瞬は戦いを重ねることに傷付いてきたはずだった。
まるで戦いの真の姿と意味を忘れてしまったような瞬の言葉に――戦いを勧善懲悪のゲームでしか知らない一般人のようなことを言う瞬に――氷河は、しばし呆けた。
「瞬、おまえ――」
『今更なぜ戦いの初心者のようなことを言い出したのだ』と、氷河がその時 瞬に尋ねることができなかったのは、瞬の意識や考えがどうであれ、今の瞬が自分の勝利に傷付いていることがわかっていたからだった。
今の氷河の務めは、傷付き悲しんでいる瞬を抱きしめてやること。
それが、今の氷河が他のすべてに優先させて行なわなければならないことだったからだった。

そして結局、その時 感じた違和感を、氷河は長く記憶し 長く引きずることはなかった。
瞬は以前と変わらず綺麗で可愛らしく、また控えめで、人当たりは やわらかく、物人に対する同情心や愛情も並以上。
その優しい気質には、どんな変化も見られなかったのだ。
一個の人間として優しいだけでなく、恋人としても、瞬は最上等。
気質はもちろんのこと、その身体までも――氷河は、瞬の指先や睫毛の1本1本にすら、文句のつけどころを見い出すことはできなかった。
もちろん、瞬を失うことなど考えられない。
だから――瞬が優しく美しい恋人だということに気を取られ、瞬を抱きしめることに夢中になり、氷河は、その時 瞬に対して感じた違和感を、やがて忘れてしまったのである。


瞬は確かに文句のつけようのない恋人だった。
しかし、瞬は、同時にアテナの聖闘士でもある。
そして、敵を倒すことを続けているうちに――シベリアから帰ってきた時には あれほど明るかったというのに――瞬の表情や瞳は日に日に暗く沈んでいった。
その沈み方・・・が、殺生谷での戦いが終わった直後――初めて“敵”というものを倒した直後の瞬のそれに酷似していると思いはしたが、それは瞬らしくないことでもなかったので、氷河は これまで通り、ひたすら瞬の心を慰めることにだけ努めていたのである。

そんな瞬が、
「シベリアに行きたい。あの白い世界が見たい」
と言い出した時、世界は――北半球は――まだ真冬。
氷河が初めて瞬をシベリアに連れていってから、ひと月ほどの時間が過ぎていた。
自分の故郷であるシベリアを瞬が気に入ってくれたらしいことは嬉しかったが、氷河は瞬の願いを叶えてやることはできなかった――より正確に言うと、すぐに叶えてやることはできなかった――のである。

「春になってからの方がいいだろう。春は綺麗だぞ、あの辺りも。春を待ち焦がれていた花たちが一斉に大地を埋め尽くす」
瞬にはそういう言葉でシベリア再訪を思いとどまらせたが、氷河が瞬の望みを叶えてやれない本当の理由は他にあった。
その時 アテナとアテナの聖闘士たちは――おそらく瞬も――数日中に敵が来襲する気配が濃厚だと感じていたのだ。
今 アテナの側を離れるわけにはいかないと。

「うん……。春には たくさんの花が咲いて 綺麗なんだよね、シベリアは――」
アテナの聖闘士としての義務と責任を 自分の心に優先させる瞬は、無理に我を通すようなことはしなかった。
仲間の言葉や決断を 自分のそれに優先させる瞬は、我儘を言うこともない。
春まで待てという言う氷河に、瞬は素直に頷き、氷河は、素直で従順な瞬に ほっと安堵した。
同時に、瞬の願いを叶えてやれない自分に腹を立て、今すぐシベリアに向かうことの代わりに、アテナの側を離れることなく瞬の心を楽しませてやる方法はないものかと考える。
その代替案の模索に意識を向けていたせいで、その時 氷河は気付かなかったのである。
大人しく仲間の言葉に頷いた瞬が、聞き取るのも困難なほど小さな声で、
「でも、僕、それまで耐えられるかな……」
と、呟いたことに。






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