翌日、瞬が一人でシベリアに向かったことを 星矢に知らされ、氷河は唖然とすることになったのである。
それが、あまりに瞬らしくない振舞いだったから。
瞬が 恋よりアテナの聖闘士としての義務や責任を優先させることは、これまでにも幾度もあった。
だが、瞬が、自分の個人的な望みを、恋はもちろんアテナの聖闘士としての義務に優先させることなど、未だかつて一度も――本当に、ただの一度も――なかったのだ。
恋も命も 地上の平和が保たれてこそ。
瞬は、その事実を 誰よりも――少なくとも氷河よりは はるかに――強く自覚し、その事実を自らの行動の指針にしている人間だった。
だというのに。

「いったい瞬は何を考えているんだ! 今 アテナの側を離れるなんて、正気の沙汰ではないぞ!」
『瞬には ひたすら甘く』を心掛けている氷河も、こればかりは笑って許せることではなかったのである。
瞬は確かに『春まで待つ』と氷河に告げたわけではなかった。
だが、これは騙し討ちも同然のやり口ではないか。
瞬らしくない――それは、何もかもが あまりにも瞬らしくないことだった。

「俺にもよく わかんねーんだけどさー」
前日の二人のやりとりを知らない星矢と紫龍は、瞬の無責任に 氷河ほどは憤っていないようだった。
というより、彼等は、氷河に怒髪天を衝く様を見せられてしまったせいで、自然に瞬の弁護にまわらざるを得なくなってしまったのである。
「さっき、突然 今 空港にいるって電話が入ってきたんだ。でも、明日中には必ず戻るって言ってた。 文字通り、とんぼ帰りだな。何のために行くのかは教えてくれなかったけど、瞬の奴、飛行機に乗って大丈夫なのかってくらい、つらそうな声してた」
「つらそうな声?」
「あの瞬が こんな無謀をするんだ。よほどの事情があるんだろう。軽率な思いつきからのことではないだろうし、物見遊山に行ったのでないことも確実だ。そう いきり立つな。おまえはクールな男のはずだろう」
「そうそう、少し落ち着けって。今朝行って 明日中に帰ってくるなんて、ほんとに行って帰ってくるだけじゃん。おまえのいないところで他の誰かと逢引きしようっていうんでもないだろ。こないだ おまえと一緒にシベリア行った時、何か忘れ物でもしたんじゃねーのか? んで、それを取りに行ったとかさ」

いきり立つ仲間を落ち着かせるために適当なことを言う星矢を、氷河は ぎろりと睨みつけた。
もし瞬が準緊急時である今、そんなふざけた理由で戦線を離脱したというのなら、氷河は なおさら瞬を責めなければならなくなる。
そんなこともわからずに――星矢は、わかっていないのではなく、考えを及ばせていないだけなのだろうが――いい加減なことを言う星矢に、氷河は立腹した。
「こんな時に こんな強行軍で取ってこなければならない忘れ物とは何だ!」
「そりゃ色々あるだろ。大事なものだよ。部屋の鍵とか、キャッシュカードとか。あ、でも、俺が思うに、いちばんありえそうな忘れ物っていうと、あれだな。パンツ脱いだまま、それをシベリアに忘れてきたってパターン」
「阿呆!」

星矢が推察した“いちばんありえそうな忘れ物”の すっとぼけ具合いに、氷河は重い頭痛を覚えてしまったのである。
瞬の忘れ物が本当にそれだったなら、俺としても瞬の無謀を責めるわけにはいかなくなるではないかと、氷河の脳の歓楽感情を司る部分が つい考えてしまう。
瞬の忘れ物がそれであるはずはなかったが、紫龍の言うことには一理がある。
あの瞬が こんな無理を通そうとするのだ。
瞬がこんなことをするのには、相応に深い事情があるに違いない。
となれば、瞬を叱るのは、帰ってきた瞬から この無謀の理由を聞いてからでも遅くはない。
そう思うことで、氷河は、なんとか自身の内の怒りを消し去ることができたのだった。






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