戦い方が変わっただけで、瞬の優しさが消えたわけではない――氷河のその認識が揺らぐことになったのは、瞬のシベリア再訪を妨げていた敵たちとの戦いが収束し、聖域に束の間の静けさが戻った その日のことだった。
「かわいそうに。アテナに敵対しさえしなければ、こんなことにはならずに済んだのに」
聖域の上には雪のない晴れた冬の青空があった。
その空の下で、敵の影がなくなった聖域を眺めながら、同情に耐えないと言わんばかりの目をして、瞬はそう呟いたのだ。
自らが倒した敵たちを『かわいそう』だと、瞬は言った。
優しげに。
瞬が変わってしまったのは戦い方だけではないと、その時、氷河は初めて気付いたのである。

『かわいそうに』
そんな言葉を、以前の瞬は決して口にしなかった。
それは、氷河が知っている瞬なら、絶対に言わない言葉だった。
瞬は――以前の瞬は、たとえそれが自らが倒した敵であっても、『かわいそうに』などという言葉で哀れむことはしなかった。
それは、たとえ“敵”であっても、瞬が 対峙する者の人格を認め、彼等には彼等なりの正義や理想や幸福があることを 瞬が知っているからで、また同時に、自分が絶対的に正しく強いという意識を瞬が持っていないからだった。
敵に勝利した直後でも、瞬は決して自分を強いと思わないし、自分が正しいとは――自分だけが正しいのだとは――思わない。
当然、高い位置から敗北した者たちを見下ろし、『かわいそうに』などと呟くこともない。
少なくとも、これまでの瞬は そうだった。

アテナに敵対する者たちにも彼等なりの正義があり、彼等は もちろん心も持っている。
その事実を知っているから、瞬は 自身の戦いに苦しみ続けてきたのだ。
自分の信じる“平和”“正義”“幸福”を唯一絶対のものと考え、その型から はみ出しているものを哀れむようなことを、瞬は決してしなかった。
戦いに敗れ倒れた敵たちに 瞬が捧げるものは、哀れみではなく、彼等は彼等なりに必死に生き戦ったのだという認識――敬意――だった。
『負けたから かわいそう』『間違っていたから かわいそう』などと考えることを、瞬はしたことがなかった。

自分が正義と考える正義、自分が幸福と考える幸福、あるいは通俗的に社会一般で流布されている正義や幸福。
その範疇に収まっていない者たちを『かわいそう』と思うことは、別れの真の意味も現実も 死の真の意味も現実も知らない子供のすることである。
『泣いた赤鬼』や『ごんぎつね』の絵本を読んだ子供が、感覚に伴って生じた情調のまま涙することと、どんな違いもない。
それは 何も知らない子供の優しさであって、瞬の優しさではない――以前の瞬が有していた優しさではない。

同情心に満ち、その気質は優しいままだが、瞬は確かに何かが変わってしまっていた。
だが、いったいなぜ。
そして、本当にそんなことが起こり得るのか。
氷河は戸惑い混乱した。
だが、だからといって、『おまえは俺の知っている瞬じゃない』と瞬を突き離すことはできず、変わってしまった瞬を引き寄せることは なおさらできない。
氷河は、瞬ではない瞬の前に、無言で立ち尽くすことしかできなかった。






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