シベリアで瞬が知っている唯一の 屋根のある場所――修行時代に氷河が過ごしていた家――に、瞬はいなかった。 いったい瞬はどこに行ったのかと、白と僅かばかりの青色がある世界で、氷河は苛立った。 雪と氷の他には 張り詰めた冷たい空気しかない世界――視界や思念を 遮るものの何もない世界。 だが、救いを求めるような瞬の小宇宙を氷河が感じ取ることができたのは、そこが遮るものが何もない世界だったからではなかっただろう。 「瞬が泣いている……」 氷河が、瞬の涙の気配がする方向に視線を向けると、 「おまえにも、一輝並の嗅覚が備わってきたな」 と言って、氷河が感じ取った手掛かりに、紫龍は苦笑した。 紫龍の苦笑が消える前に、氷河が雪原を西に向かって駆け出す。 星矢と紫龍は、すぐに氷雪の聖闘士のあとを追いかけた。 聖闘士の脚力で駆けて、約10分ほど。 相変わらず 世界には青と白しかなかったが、瞬の小宇宙を追って駆けていた氷河が足をとめた場所には、凍った雪と氷でできた奇妙な――むしろ奇怪な――氷窟があった。 まるで、ヘロデ王の幼児虐殺を逃れる聖家族のためにヤハウェの神が超自然の力で作り出した岩窟のように唐突に、それは そこに出現した。 だが、その氷窟が至善なる神が作ったものでないことは、アテナの聖闘士たちには すぐに感じ取ることができたのである。 瞬の か細い小宇宙を打ち消すように氷窟の奥から漂ってくるものの気配は、大天使ウリエルの光輝とは思えないほど禍々しい。 氷河たちは、瞬が自らの意思で この氷窟の中に入っていったのだとは、どうしても思えなかった。 「こんな氷窟、いつのまに できたんだ。少なくとも俺が白鳥座の聖衣を授かって日本に向かった時には、ここにこんなものはなかったぞ」 「なんか、ものすごーく わざとらしくて、ものすごーく怪しげなんだけど。ほんとに この中に瞬がいるのか?」 「いるんだろう。氷河が瞬の匂いを嗅ぎ間違うことはあるまい」 「でもさー……」 後先構わずの無鉄砲を売りにしている星矢が突入に躊躇を覚えるほどの瘴気が、氷窟の奥から漂ってくる。 氷河たちが その中に足を踏み入れることになったのは、恐ろしく深いように感じられていた氷窟の、驚くほど入口近いところから、瞬の声が聞こえてきたからだった。 「ドラウプニル様、助けて。助けてください。僕、また汚れてしまったみたいなの。氷河に嫌われてしまったの……!」 瞬の声に引かれ、氷河たちが足を踏み入れた奇怪な氷窟。 氷の壁でできた洞窟の壁は外の光を通すらしく、その中は思いがけないほど明るかった。 涙声で、いったい瞬は誰にむかって訴えかけているのか。 氷窟の中に足を踏み入れた氷河たちが、そこに瞬の姿を認めた時、ねっとりと心に絡みついてくるような低い男の声が、氷の壁に反響することなく 聖闘士たちの耳に聞こえてきた。 「かわいそうな瞬。アテナはそなたを救ってくれないのか」 「アテナのことを悪く言わないで」 「もちろん。さあ、おいで。幸せにしてやろう。おまえの綺麗な氷河にふさわしいように、おまえを綺麗にしてやる」 瞬の声だけが、氷窟の壁に反射して響いている。 そして、瞬のものでない声は響いていない――つまり、声の主は物理的には この場所に存在していない。 そのことに気付いているのかいないのか、瞬の視線は氷窟内の何もない虚空の一点に結ばれていた。 「だが、余は、余に忠誠を誓っていない者には、際限なく余の力を用いることができないのだ。これからも余に救ってもらいたかったら、そなたはアテナと袂を分かち、余の 「そんなことは……」 「アテナなど、仕えるに値しない神、むしろ、地上に不幸と争いだけをもたらす神だ。瞬、もう そなたには それがわかっているはずだろう? 余は、そなたを幸せにしてやったように、すべての人間を幸せにすることができるというのに、アテナはそれを邪魔している。そんな神に従っていても、そなたは幸福にはなれない。逆に、苦しみが増し、汚れていくばかりだ。そなたの氷河が そなたを振り向くことは二度とあるまい。そなたは、それでよいのか?」 「なんだよ、この声」 「今 問題にすべきは、この声が何者の声なのかということより、この声が何を言っているのかだろう」 瞬が何に向かって話しかけているのかを探るために、当然のごとく 星矢と紫龍は その声をひそめていた。 だというのに、 「瞬! おまえ、いったい誰と話しているんだっ!」 氷河が、彼の仲間たちの至極当然な判断を、見事に台無しにしてのける。 氷河の大声に弾かれたように振り返った瞬の目は、驚きより苦渋の色をたたえていた――苦渋の色だけをたたえていた。 「あ……あ……」 苦渋に歪む瞬の眉。 突然 その場に闖入してきた氷河を無視し、正体のわからない声は、だが、瞬の心を撫でつけるように 語り続けた。 「一生、この罪と汚れを抱えて生きていくつもりなのか、瞬?」 声は、その響きだけは優しげだった。 「そなたが奪った命、そなたが奪った幸福、そなたが苦しめた者共、そう、兄を苦しめたことも――そなたが犯した すべての罪の記憶と その罪悪感を、余がそなたの中から消し去ってやる。敵は敵でしかなく、心を持った人間ではない。そう思っていられることの幸福を、そなたは身をもって味わったはず。犯した罪を罪と思わずにいられた間、そなたは この上なく幸せな人間でいられたはずだ。幸せだったろう?」 「僕は――」 「余が救ってやる。余だけが そなたを救うことができる。余なしでは、そなたは幸せになれない。余の許に来れば、そなたは幸せになれる。だが、アテナはそなたのために何もしてはくれないぞ」 声の主が何者なのかということは、氷河にはわからないままだった。 だが、瞬が変わってしまった訳は――瞬が、ただ感情の上だけで優しいものになってしまった訳だけは、その不愉快な声のおかげで 氷河は知ることができたのである。 この不愉快な声の主は、瞬が経験的に会得した“すべての人間は心を持っている”という知識を、瞬の上から取り除いてしまったのだ。 その結果、瞬の中で、これまで瞬が倒してきた“敵”たちは心を持たない ただの“敵”になった。 瞬が苦しめた“兄”も、ただの“兄”というものでしかなくなった。 心を持たない者を傷付けることはできない。 そうして 瞬は誰も傷付けていないことになり、瞬の中の罪悪感は消え、瞬は ただ優しいだけの幸せな人間になってしまった。 そういうことだったのだ。 だから瞬は、真の戦いも悲しみも苦しみも知らない子供の優しさや同情心しか持てない者になった。 幸福な場所から傲慢に 不幸な者たちに同情することしかできない者になってしまったのだ――。 瞬が変わってしまった経緯はわかった。 だが、瞬がなぜ そんな事態を受け入れたのか、瞬がなぜ そんな自分になることに甘んじたのか、もしかしたら自ら望んだのか――が、氷河にはわからなかったのである。 シベリアにやってくるまでは 耐えることのできていたものに――耐えるだけでなく、優しさという貴いものに結晶化することさえできていたものに、なぜ今になって瞬は耐えられなくなってしまったのか――。 正体のわからない声の主に、忘れていたものを思い出させられて蒼白になっているらしい瞬に、今それを問い質すのは酷なことのような気もしたが、それは今 訊かずにいられることでもない。 だから――瞬をこれ以上苦しめたくないのだと訴えてくる自分の心を叱咤して、氷河は瞬に尋ねたのである。 「瞬。おまえは、戦い続けることが そんなにつらかったのか? こんなふうに逃げ出さずにいられないほど――こんな得体の知れないものに頼らずにいられないほど? いったいなぜ、いつから、おまえは そんなに弱い人間になってしまったんだ」 「氷河! おい、事情を訊くにしても、訊き方ってもんがあるだろ。相手は瞬なんだぞ。もっと優しい言葉で訊いてやれって」 星矢が らしくもなく 気遣いを促してきたが、どういう言葉で訊いても質問内容が変わることはない。 氷河が知りたいのは、『あれほど強く優しかったおまえが、なぜ こんなにも弱い人間になってしまったのか』という、その一事だけだった。 氷河に問われた瞬が、苦しげに――本当に胸に痛みを感じているように苦しげに――質問者の顔を見上げてくる。 そうしてから、瞬は、ほとんど泣いているようにしか聞こえない声で、氷河の詰問に答えてきた。 「だって……だって、氷河は綺麗な人が好きなんでしょ……?」 と。 「なに?」 瞬の答えの真意を掴み切れず、氷河は最初、自分が答えをはぐらかされたのかと思ったのである。 だが、瞬の眼差しは真剣そのもの。そして、必死。 瞬は、どう見ても この場を遁辞で逃げようとしているのではない――ようだった。 「氷河は綺麗な人が好きなんだよ。なのに、僕は醜い。罪だらけで傷だらけで汚れきっていて。僕は――僕は綺麗になりたかっただけなんだ。どんな罪もどんな傷もない僕になりたかった……!」 「瞬……おまえ、何を言っているんだ?」 氷河は、今 突然、自分が馬鹿になってしまったような気がしたのである。 瞬の言っている言葉の意味が、まるでわからない。 瞬はこんなに必死なのに――必死に見えるのに――瞬の訴えの意味が、氷河には全く理解できなかった。 「僕は、氷河に好かれるような僕になりたかった。いつだって、そう思ってた。そしたら、あの時――初めて氷河とシベリアに来た日の夜、ドラウプニル様の声が聞こえてきたの。僕を綺麗にしてくれるって……僕を、いつまでも氷河の側にいられる僕にしてくれるって……!」 「ドラウプニル……?」 それはいったい何者なのだと問うべきなのだろう。 それは間違いなく邪悪なものだった。 だが、今の氷河には、邪悪なものの正体を暴くことより先にしたいことがあったのである。 「瞬、おまえ、何かひどい勘違いをしていないか? だいいち、おまえが醜いだの汚れてるだの、そんなことを誰が言ったんだ」 少なくとも それは絶対に俺ではない――という確信が、氷河の中にはあった。 実際、それは瞬ひとりの思い込みだったのだろう。 瞬は、悲しげに顔を伏せて、またしても氷河には理解し難いことを言い募ってきた。 「そんなこと、誰に言われなくてもわかるよ。僕はたくさんの人を傷付けて、たくさんの人の正義を否定して、たくさんの人から幸せになる可能性を奪ってきたんだから」 「そうすることで、おまえは、多くの人間の命を守り、多くの人間の正義を肯定し、多くの人間の幸福の存続に寄与してきた。おまえは、これまで おまえが命がけで守ってきたものに価値がなかったとでも思っているのか」 「あ……」 瞬は、自分が傷付けた者たちばかりを見て、自分が守ってきた者たちに視線を投じることをしていなかった――忘れていた――らしい。 氷河に問われて、瞬は慌て戸惑った様子を見せた。 「おまえが醜いと言い、汚れていると言うものが、俺にとっての“綺麗”だ。自分のしてきたことを忘れ、自分だけ楽になろうとするおまえこそ醜い」 「僕は楽になりたかったんじゃない!」 それまで氷河の言葉に たじろいでいるようだった瞬が、ふいに強い語調で氷河に反駁してくる。 今度は、氷河が たじろぐ番だった。 「氷河は……氷河は、自分が綺麗だから、そんなことが言えるんだよ!」 「おまえは本当に何を言っているんだ。聖闘士が罪を犯していないことなど ありえないと言ったのは、おまえだろう。その理屈でいったら、俺もおまえと同じように罪にまみれた醜い人間だということになる」 「氷河は綺麗だよ!」 少しだけ瞬の気持ちがわかりかけていたところだった氷河に、また理解の難しい言葉が降ってくる。 あまりの難解さに、氷河の脳は 少々疲労を感じ始めていた。 「おまえ、言っていることが矛盾してるぞ……」 「……氷河は綺麗だよ! でなかったら、僕……僕たちは――」 「でなかったら、俺たちは、醜い罪人同士が肩を寄せ合い、慰め合っていることになるな」 「……」 「それのどこがいけないんだ。人間ってのは、みんな そんなふうにして生きているものだぞ。人間は至美至善の神じゃないんだから。俺たちも そんなふうに二人で生きていこう」 「氷河……」 「おまえは、俺たちとは違って繊細で傷付きやすい心を持っている。だから、俺たちのように、正義と平和のためなんだからアテナの聖闘士の戦いは仕方がないものなんだと割り切れとは言わない。だが――」 「違う……違うの。そんなんじゃないの。僕……僕はただ――」 “綺麗”で“繊細”な瞬は、自分が実際以上に綺麗だと思われることに恐れを感じてしまうらしい。 氷河の言葉を遮って、瞬は、困ったように顔を伏せ、顔を伏せたまま 2度ほど瞬きをした。 目の周囲を朱の色に染め、そして、蚊が鳴くように小さな声で、その本心を告げてくる。 「僕は、戦い続けることには耐えられるの。どんなに苦しくても、戦っていくことはできると思う。そんなんじゃなくて……僕はただ、氷河に嫌われたくなかっただけなの……」 「……あ?」 |