おそらく、ここは、欣喜雀躍、随喜の涙を流して喜び感動する場面なのだろう。 しかし、世の中には、嬉しすぎて嬉しがることもできない言葉というものが存在する。 瞬が今、もじもじしながら氷河に告げてきた言葉がそれだった。 瞬は、自身の苦しみを忘れるために恋人の抱擁を必要としてはいるが、恋人を愛しているわけでも 特に好きでいるわけでもないのだと思っていただけに、瞬のその小さな告白は、氷河に嬉しがることを忘れさせるほど嬉しく、面映ゆささえ感じさせるものだったのである。 「あ……あー……。そうだな。これまでおまえと言う人間を作ってきた苦しみや悲しみや、おまえが罪と呼ぶものを、おまえが忘れずにいて、その上に優しさや強さを培う努力を続けていくのなら、俺はいつまでもおまえを好きなままでいるだろう」 「氷河……それくらいのことで氷河がずっと僕を好きでいてくれるのなら、僕はどんな罪にだって、どんな苦しみにだって耐えてみせるよ!」 それは決して楽なことではないだろう。 だが、氷河の求めるものが 瞬にとって“それくらいのこと”であるのもまた、紛う方なき事実だったらしい。 瞬は要するに『今のまま、変わらなくていい』と言われたようなものなのだから、確かにそれは“それくらいのこと”なのだろう。 瞬にとっては。 強張っていた瞬の四肢と表情から、一瞬で力みが消えていく。 柔軟さを取り戻した瞬は、今はその顔に安堵を通り越した笑顔のようなものを浮かべていた。 そして、その段になって、氷河は気付いたのである。 自分たちが青空の下にいること。 あの怪しげな氷窟が、いつのまにか消えていること。 そして、星矢と紫龍が すっかり呆れきった顔をして、彼等の仲間を見詰めていることに。 「いったい、これは――いつのまに……」 「なーにが『いったいこれは、いつのまに』だよ! おまえ等が人目も気にせず いちゃこらしてるせいで、あの変なおっさん声の正体を探る前に、おっさん、呆れて退散しちまっただろ! あれがアテナと聖域に悪心を抱いてる邪神か何かだったら どーすんだよ、ほんとに!」 氷河の呟きが、星矢たちには 相当 間の抜けたものに聞こえたらしい。 眉を吊り上げて、星矢は 呑気に過ぎる仲間を怒鳴りつけてきた。 「星矢……ごめんね……! 僕が自分のことしか考えてなかったせいで……」 慌てて氷河と星矢の間に割って入ってきた瞬の謝罪のせいで、星矢の攻撃の手が緩む。 「あ、いや、おまえは もう少し、自分のことも考えた方がいいとは思うけどさー」 瞬とは別の意味で自分のこと(と周囲のこと)を考えず、日常生活において瞬の世話にばかりなっている星矢は、瞬に 代わりに氷河を こき下ろすことで、星矢は この件に関する鬱憤を晴らすことにした――ようだった。 邪悪な気配が消え 晴れ渡った白と青の世界に、邪悪というほどではないにしろ、悪意が皆無とも言い難い星矢の軽快な声が響く。 「惚れたらアバタもエクボっていうけどさー。氷河って、おまえが思ってるほど綺麗なんかじゃないだろ」 「氷河はいつも綺麗だよ」 「だってよ、おまえら、一緒に寝てんだろ? こう、目を血走らせて、浅ましく息を乱してる氷河とか、毎晩見てるだろ」 「氷河は そんなふうじゃないよ。すごく優しくて、いつもうっとりするくらい綺麗な目で僕を見詰めてくれるんだ」 「ほんとかよ」 他に人影がないとはいえ(一応)公共の場で、しかも真っ昼間から 何という話題を持ち出すのだと、氷河は派手に渋面を作ることになったのである。 それでも彼が星矢の話の腰を折らなかったのは、星矢が突然そんな話を始めたのは、今回の件で瞬の責任を問いたくないと 彼が考えているからなのだということが わかればこそ。 しかし、瞬の答えを聞いた途端、星矢は 自分が持ち出した会話の本来の目的を忘れてしまったらしい。 星矢は、どう考えても己れの好奇心を満たすためのものとしか思えない質問を、氷河に投じてきた。 すなわち、 「おまえら、ほんとにやってんの?」 という、あまりに露骨すぎる質問を。 「あのなー」 瞬が すぐ側で聞いているのである。 せめてもう少し婉曲的な表現を採用してほしいと、氷河は心底から思った。 が、己れ自身のことのみならず、周囲の人間の都合も考えないのが、天馬座の聖闘士の身上。 氷河が苦々しげに口許を歪ませている事実など、己れの好奇心を満たしたいという 星矢の強い欲求の前には、ひとえに風の前の塵に同じ。 星矢はもちろん、渋面をたたえている氷河から 退かず、媚びず、省みなかった。 「だって、ほんとにやってたら、いつも優しく見詰めてなんかいられないだろ、普通」 「……」 ここで星矢の好奇心を満たしてやらなければ、星矢はいつまでも その謎(?)にこだわり、ことあるごとに その謎を解明しようとするだろう。 それは あまり好ましい事態ではない。 しかし、だからといって、その謎の答えを瞬に知られることは、これまた あまり好ましいことではないような気がする。 その二つの懸念の間で 自分の対応に迷っていた氷河に 腹をくくらせたのは、紫龍が視線で指し示した場所にあったものだった。 つまり、これまで自分が謎に抱かれていたらしいことを初めて知ったらしい瞬の、困惑と 星矢以上に強い好奇心をたたえている二つの瞳。 その瞳に出会った氷河は、白鳥座の聖闘士が 瞬が思っているほど綺麗な男ではなく、むしろ姑息と俗っぽさを極めた男であることを 瞬に知っていてもらうことは、そう悪いことではないのかもしれない――と思ったのである。 「自慢になるから言いたくはないが、俺は注意深い男なんだ。獣の本性を表に出すのは、俺の愛撫に酔って、瞬が目を開けていられなくなってからにしている。目を血走らせている俺なんて、瞬は見たこともないだろうな」 「へっ」 「結構 難しいんだぞ。あくまでも優しく紳士的でありながら、情熱的に振舞うというのは」 瞬がそうだったように氷河も、“瞬に嫌われたくないから”、そう振舞うことを続けてきた。 だが、もしかしたら、それは かえって瞬を不安にすることだったのかもしれない。 今になって、氷河は その可能性に考えを及ばせることになったのである。 氷河のその考えを裏打ちしてきたのは、本来の目的をすっかり忘れてしまっているように見えていた某天馬座の聖闘士だった。 「おまえがそんなに用心深いから、瞬が誤解するんだろ。少しは迂闊になれよ」 「しかし、そんなことをして、瞬を恐がらせたり、嫌われたりしたら、元も子もないだろう」 「そんなことないよ。僕、そんな氷河も見てみたい!」 「……」 もしかしたら、本当にその方がいいのかもしれない。 未知のものを恐れるどころか、むしろ興味津々の 嫌われることを恐れて自分を飾ってばかりいると、ろくなことにはならない――と。 |