知らせる者などないはずなのに、彼は三巨頭がアテナの聖闘士たちに倒されたことを知っていた。
「このジュデッカに辿り着く前に、おまえたちは三巨頭に倒されてしまうものと思っていたのだが」
ジュデッカでアテナの聖闘士たちを迎えたパンドラは、無表情に そう前置いて――嬉しそうにでもなく、不機嫌そうにでもなく そう前置いて――、
「フェニックス、キグナス。ご苦労だった」
と、鳳凰座の聖闘士と白鳥座の聖闘士をねぎらった。
そうしてから、にこやかな微笑を浮かべ、瞬に手を差しのべた。
「よく来てくれた。こうして直接 君に会い、この手に触れられる時を どれほど待ち焦がれていたことか」
「あなたは……」
自分の弱い心が作った幻と思っていた人の体温を その手に感じ、瞬は尋常でない驚きに支配されているようだった。
とはいえ、瞬は、死者の国で再会を果たすことになった人が 生きている人間なのか、あるいは 死んだ者なのか、その判断に迷ってもいるようだったが。

が、氷河には、生者であろうと死者であろうと、彼が この冥界で いかなる力の束縛も受けずに不吉な微笑を浮かべているという事実だけで十分だったのである。
この男は やはりアテナの聖闘士たちの敵だったのだと判断する材料として、それ以上の何かは、氷河には不要だった。
もともと氷河は、瞬の心を惑わす男がアテナの敵であることを望んでいたのだから。
『やはり ハーデスの手先だったのか』と言おうとした時、白鳥座の聖闘士の瞳は安堵の気持ちと喜びで輝いていたに違いない。
幸か不幸か、その場に人の姿を映し出す鏡はなく、氷河は自分の表情を確かめることはできなかったのだが。
そして、氷河が嬉々としてパンドラに投げつけようとした その言葉は、瞬の兄の、
「貴様、あの時の!」
という低い呻きに妨げられてしまったのだが。

「一輝、おまえもあの男を知っているのか」
「知っているも何も――」
瞬の兄が 冥界にいる黒衣の男の顔を見やり、忌々しげに口許を引きつらせる。
彼は、仲間への説明より アテナの敵の誤解を解く方を先にすべきと考えたのか、黒衣の男に向き直り、気色ばんだ声で彼を怒鳴りつけた。
「誤解するな! 俺は貴様の口車に乗せられて、瞬をここに連れてきたわけではない!」
一輝の説明を受けなくても、その怒声だけで、氷河には事情が飲み込めたのである。
黒衣の男は、瞬を手に入れるための策を、白鳥座の聖闘士だけでなく瞬の兄に対しても講じていたのだと。
漆黒の男の周到に これ以上ないほどの不快を感じて、氷河は――氷河もまた――その企みの不首尾を彼に宣言した。

「俺とて、マーマの復活に瞬を利用するために、瞬をここに連れてきたわけではない」
氷河のその言葉を聞くと、一輝は盛大に その眉を吊り上げた。
「こいつ、おまえにまでそんなことを言っていたのか! こいつは、俺には、瞬を生きたまま冥界に連れてくれば、エスメラルダを生き返らせることができると言っていたんだぞ」
いちいち人の心の機微を突き、嫌らしい策を練る男である。
一輝の言を聞いて、パンドラに対する氷河の不快の気持ちは更に増大した。

「俺は――おそらく一輝も、貴様の たわ言を信じたわけではない。貴様の姑息なやり口に乗せられたわけでもない。アテナの聖闘士として、瞬はここに来る運命だったんだ」
決して弁解のためではなく、むしろ 瞬の前で卑劣な男を糾弾できることを喜んで、氷河はパンドラにそう告げた。
白鳥座の聖闘士の怒声に動じた様子もなく、鳳凰座の聖闘士の睥睨に動じた様子もなく、静かな口調で、パンドラが二人に問い返してくる。
「ならば、おまえたちは なぜ 瞬が冥界に来るのを止めなかったのだ」
「瞬はアテナの聖闘士なんだ。アテナの聖闘士として、ここに来た。止められるわけがない。それは無理な話だ」
「おまえだけ地上に残っていろと言われて、その通りにする瞬でもない」
「それでも、私なら止めたがね」

瞬を冥界に誘い込むための策を弄していた男が、白々しく そう言ってのける。
氷河は彼の言葉に、一瞬 声を詰まらせた。
瞬に地上に残れと言わなかったことで、氷河は その胸中に、悔いとも罪悪感ともつかない小さな棘のようなものを生んでいたから。
それは一輝も同じだったらしい。
黒衣の男が、二人の心を見透かしたような目をして、氷河の作った短い沈黙に乗じ、すかさず攻撃を仕掛けてくる。

「言い訳は見苦しい。おまえたちは、弟を、仲間を、自分の幸福のために利用しようとしたのだ」
「違う」
それは、断じて事実ではない。
パンドラの提案を聞く以前はもちろん、その提案を聞いた後も、母がもし死なずにいてくれたならと考えたことはあったが、母を蘇らせるために瞬を失ってもいいと考えたことは、氷河は ただの一瞬間もなかった。
瞬の存在を消し去る危険を冒してまで、手に入れたいものなどない。
その思いに嘘はなかった。
パンドラは、『違う』という氷河の言葉を信じるつもりは全くないようだったが。

「違うと思いたい気持ちはわからないでもないが、結果はこうだ。おまえたちは、瞬を冥界に連れてきた。それが ただ一つの事実で、動かし難い現実だ」
「……」
自分は 決して この男の誘惑に屈したのではないと思う。
だが母との再会を願う気持ちが皆無だったかというと、それもまた否定できない。
現に氷河は、瞬に『冥界には行くな』とは言わなかった。
瞬がその言葉に従うわけがないとわかっていても一度は言うべきだった その言葉を、氷河が瞬に告げなかったのは、パンドラの言う通り確かな事実だった。
もしかしたら自分は本当はパンドラの誘惑に屈していたのだろうか。
屈してはいなくても、心は揺れていたのだろうか。
自分の本当の気持ちがわからないことが、氷河を再び沈黙させたのである。
そんな氷河を見て、パンドラは その顔に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「いずれにしても、ここは冥界。そして、瞬はここにいる。ああ、そうだ。おまえたちは、三巨頭を含めた冥闘士をすべて倒してくれたそうだな。そのことには感謝しよう。大した力もない者たちだが、ハーデスに忠誠を誓っている者たちが消えてくれるのは、私にとっても好都合だった」
天上、地上、泉下――すべての世界を探しまわっても、これほど厚顔で不愉快で 人を食った男はいないに違いないと、氷河は思ったのである。
彼は、謝意を示すつもりか、アテナの聖闘士たちに丁寧な会釈をしてみせた。






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