「いったい、あなたは何を言ってるの? これはどういうこと? あなたは氷河や兄さんを知ってるの?」 瞬には わからないことばかりだった。 自分は幻と信じていたものが実在し、しかも彼が兄や仲間と自分にはわからない話をしている――。 戸惑い、混乱しつつ、瞬はパンドラに尋ねたのである。 瞬の戸惑いは当然のものだったろう。 蚊帳の外に置かれた格好の星矢と紫龍も、それは瞬と同じだった。 そんな瞬に パンドラが気の毒そうな目を向ける。 瞳を不安に揺らしている瞬に、彼は不気味なほど優しい声音で、瞬の知らなかったことを語り出した。 「彼等は 彼等が生き返ってほしい者たちを蘇らせるために、君を利用しようとしていたんだ。そのために君が冥界に来るのを止めようとしなかった」 「氷河や兄さんが生き返ってほしい人? それは……」 「ああ、君が人間を信じられなくなるのも無理はない。だが、嘆かなくていいんだ、瞬。こんな醜い人間共は私がすぐに片付けてあげるから」 「……」 パンドラの言葉を聞いているのかいないのか、瞬は 自分を利用しようとしていたという二人の男を交互に見詰め――瞬に見詰められた男たちは、瞬に何を言うこともできずにいた。 事ここに至っては、今更 何を言っても言い訳になる。 『冥界に行くな』と言わなかったことで、既に十分 卑怯といえることをした。 この上 見苦しい言い訳をして卑怯卑劣の上塗りはしたくはない。 「氷河と兄さんが蘇ってほしいと思っている人って、氷河のマーマとエスメラルダさん……?」 「そうだ。この二人は、そのために君の身体を使おうとしていたんだ。それが君の消滅を意味することを知りながら」 「あ……」 それは事実ではないと、氷河は叫びそうになった。 少なくとも俺は、そのために積極的に具体的な行動を起こすことはしなかった――と。 氷河は、瞬の消滅を望んだことはなかったし、パンドラ自身 そうはならないと言っていたのだ。 瞬が消えるわけではなく、それは死した者と同化するだけだと。 それもまた見苦しい言い訳になると考えて、氷河は沈黙を守ったわけではなかった。 そうではなく――氷河は、パンドラがそんな虚言を吐く目的が薄々 わかり始めてきたために、かえって混乱が増し、言葉を紡ぐことができなかったのである。 パンドラは、瞬に不信の心を植えつけ、瞬と仲間たちの心を引き離そうとしている。 人間は醜悪なものだと瞬に思わせ、瞬を人間に失望させようとしている――絶望させようとしている。 だが、いったい何のために? 氷河には、パンドラの言動の目的はわかったのだが、その結果生じる事態が彼にどんな益をもたらすのかが わからなかった。 瞬が人間に失望し、それで彼はいったいどんな益を得るというのか――。 「かわいそうな瞬。君が生きている世界には、君を傷付ける者しかいない――」 パンドラは、優しげな顔と声で、瞬を包み、瞬の心を絡めとろうとしているようだった。 瞬が、そんなパンドラの前で、悲しげに小さく首を横に振る。 そうしてから、瞬は、彼を裏切り利用しようとしていた(ことにされてしまった)仲間と兄の顔を見上げてきた。 「かわいそうなのは僕じゃなく、氷河と兄さんだよ。どうして言ってくれなかったの。僕のためなの。言ってくれたら、僕、僕にできることは何でもしたのに。マーマやエスメラルダさんが蘇って、それで氷河と兄さんが幸せになるなら、僕は僕の身体くらい、すぐに二人にあげたのに……!」 「瞬……!」 それは、氷河には あまりに衝撃的な言葉だった。 いったい瞬は本気でそんなことを言っているのか。 死んだ者を蘇らせるなどという 自然の摂理に反したことのために、自分の身体を差し出すなど――たとえ それが兄や仲間の幸福のためであっても、自分の命と心を放棄するようなことは、人として正しい行為ではない。 いくら犠牲の星座の聖闘士であっても、そんなことをしてはならない。 そんなことは、人として許されない。 「瞬! 冗談でも、そんなことは言うな! おまえに そんな犠牲を強いてまで――おまえを失ってまで欲しいものなど、俺にはない!」 「氷河の言う通りだ。おまえに そんなことをさせるくらいなら、俺自身が死んでしまった方が よっぽどましだ!」 瞬の言葉に動転して、瞬を大声で怒鳴りつけてしまってから、氷河はやっと気付いたのである。 それが自分の答えだったこと、それが自分の真意だったことに。 迷う必要は 最初からなかった。 それは考えるまでもないことだった。 瞬を失うことはできない。 何があっても、できない。 氷河はやっと気付いたのである。 パンドラの不吉な誘惑のことを 自分が瞬に知らせることができなかったのは、『瞬を失うことはできない』という事実を明白なものにしたくなかったからだったのだということに。 そうすることによって、今の自分には 母より瞬の方が大切な存在になっている事実を、氷河は認めたくなかったのだ。 自分のために その命を失った人より、生きている瞬の方が大切だと、どうして言ってしまうことができるだろう。 死んでしまった人のために、氷河は どうしても そう言うことができなかったのだ。 だが、今となっては――瞬の優しい心に報いるために、氷河は はっきり言わなければならなかった。 それが 死んだ人を冒涜し、死んだ人の心を傷付け貶めることだったとしても。 だから、氷河は言ったのである。 「たとえ誰のためでも、何のためでも、俺はおまえを失うことはできない」 ――と。 氷河の その断言を聞いて、驚くほど取り乱したのはパンドラだった。 「な……何を今更! 貴様たちは、貴様たちの心を満たすために、瞬を利用しようとしたんだ!」 「違う」 初めて聞く、パンドラの上擦り 落ち着きのない声。 その声に対する白鳥座の聖闘士の声は、氷河自身が驚くほど静かで穏やかな――だが、断固としたものだった。 「いや、そうだったかもしれない。だが、今は断じて違う。瞬を失うことなどできない。瞬の命と人生は瞬のものだ」 「……!」 それまで美しく穏やかだったパンドラの面差しが、信じられないほど醜く歪む。 彼はまるで、瞬の兄や仲間や――瞬自身をも憎んでいるような目をして、アテナの聖闘士たちを睨みつけてきた。 「そんな綺麗事を、今更信じられるかっ!」 パンドラは、いったい誰に向かって言っているのか。 少なくとも それはアテナの聖闘士たちに対してではなく――パンドラは、まるで自分自身を なじり責めるように、その言葉を宙に向かって投げつけていた。 彼は、ふいに瞬の両の肩を掴みあげ、断末魔の悲鳴のような声を更にジュデッカに響かせた。 「シュン! さあ、シュン。 パンドラは いったい誰に向かって叫んでいるのか。 パンドラが呼ぶ『シュン』とは いったい誰なのか。 狂気のような目をしたパンドラの剣幕に ジュデッカに、何かが漂っている。 それはパンドラの激しい狂気とは対照的に、小さく、弱々しく、だが温かい何かだった。 その何かが、やっと聞き取れるほどの小さな声で、ジュデッカの空気を震わせる。 否、それは、思いが直接 その場にいる者たちの心に響いてくる、“声のようなもの”だった。 「できない……。できないよ、兄さん。そんなこと、できるわけないでしょう」 「なぜだ!」 「兄さんが、それを望んでいないから……。この人たちの前で――自分が生きるために他の人を犠牲にするような卑劣なことは、僕にはできない。そんな みっともない、無様なこと……。本当は兄さんだって、瞬さんの前で、そんな卑劣なことはしたくないんでしょう」 「シュン!」 「わかってる。兄さんは瞬さんが好きなんだ」 「シュン! そんなことはどうでもいいんだ! 早く! 一刻も早く! ハーデスがおまえの存在に気付いたら、私たちの願いは叶うことなく断たれてしまう。ハーデスがおまえから瞬を奪ってしまう。そうなる前に――」 「兄さんが それを望んでいないのに、そんなこと できないよ」 このジュデッカで何が起きているのか。 アテナの聖闘士たちは、パンドラと その小さな何かのやりとりが何なのか 全くわからず、すっかり取り残された格好になってしまっていた。 そこにまた、何か別の禍々しいものが割り込んでくる。 「その通り。そのようなことはできない。肉体を持たぬ弟の方が、兄のおまえより よほど目が見えているではないか」 姿のない二つ目の声。 パンドラを『兄』と呼んでいる声とは違う、強く低く、姿を見なくても傲岸な男のそれとわかる声。 その第二の声が、ジュデッカの高いところから、パンドラの振舞いを咎めてきた。 冷たく、嘲るように。 「裏切ったな。そなたは どうやら、余が何のために そなたの命を永らえさせてやったのか、わかっていなかったらしい。利口なそなたのこと、すべてを承知しているものとばかり思っていたが――。そなたは、そんな ちっぽけな魂のために自らの破滅を招くのか」 冥界軍の筆頭たる三巨頭をすら 役に立たない道具のように評していたパンドラを、更に上から見下すような その声、口調、言葉。 これこそ、この冥界を統べる者、死者の国の王ハーデスに違いないと、アテナの聖闘士たちは思ったのである。 とはいえ、だから 今この場で何が起きているのかということまでがわかったわけではなかったし、もし この声が本当に冥府の王のものであるならば、彼に従う者であるはずのパンドラが、主であり神でもあるハーデスに一向に従順な様子を見せないことは、アテナの聖闘士たちには 奇異に感じられることではあったのだが。 「裏切ったのではない。私は最初からあなたに従うつもりはなかった。あなたは、自分が この世界に復活するために、私の弟の身体を犠牲にした。あなたの復活のために、私の弟の魂は行き場を失い、家族を失い、自分のものになるはずだった人生までをも失ったんだ。私があなたに従うと、あなたは本気で考えていたのか」 冥府の王の声とおぼしきものに対峙するパンドラの声と眼差しは、ハーデスの声とおぼしきもの以上に冷ややかで、少しも 彼に臆しているようには見えなかった。 アテナの聖闘士たちは、そのせいで更に混乱を募らせることになったのである。 パンドラは、ハーデスの ハーデスに もしそうであるなら、パンドラは聖域の味方か。 あるいは、これは あくまでも聖域とアテナに敵対する者たちの内輪揉めなのか。 どうやら後者であるらしいと アテナの聖闘士たちが思うことになったのは、新たに登場した低く強い声が パンドラを嘲笑うように告げた言葉のせいだった。 「もちろん本気で考えていた。我が身を守るために、そなたは余に おもねるだろう――とな」 少なくとも、第二の声の主は、パンドラを自分に従うものと思っていたらしい。 事実はそうではなかったようだったが。 「冥府の王ともあろうものが、とんだ考え違いをしたものだ。人間には誇りというものがある」 人間である(らしい)パンドラが、冥府の王にして神であるハーデスに、神の力を恐れるふうもなく言い切る。 そう言ってから、彼は、 「その誇りを……私は自分で地に堕としてしまったが」 と、苦しげに呻いた。 |